山陰本線 馬堀 旧線 |
今では嵯峨野線の愛称がつき、185系の特急電車や北近畿タンゴ鉄道のから乗り入れる特急ディーゼルカーで賑わい、太秦、円町などの新しい駅が誕生して113系の近郊電車が京都の市内輸送もになう山陰本線京都口。保津川に沿った狭い渓谷をぬうように走る嵯峨(現在の嵯峨嵐山)−保津峡−馬堀間は、複線化とその後の電化のネックとなったため、長いトンネルを掘って新しい路線が作られました。1989年の別線による複線化で一旦は廃止された嵯峨−保津峡−馬堀間の旧線は、沿線の景観の良さから1991年に嵯峨野観光鉄道として、山陰本線の嵯峨駅に隣接するトロッコ嵯峨から馬堀駅近くのトロッコ亀岡まで、DE10型ディーゼル機関車のプッシュプルによるトロッコ列車の走る区間として復活しました。
ここでは、蒸気機関車が活躍していたころの山陰本線の旧線を、嵯峨−保津峡間、保津峡駅から保津川に沿った上流と馬堀付近の3回に分けてご覧いただきます。
1971年4月のダイヤ改正で無煙化されるまで、旅客列車は梅小路機関区のC57型蒸気機関車、福知山機関区のDD54型ディーゼル機関車、米子機関区のDF50型ディーゼル機関車が牽引していました。DD54型は故障が多かったのか、福知山機関区のC57型蒸気機関車が代走することもよくありました。貨物列車は、米子機関区のD51型蒸気機関車が牽引にあたっていました。
保津峡駅を発車した下り列車は、保津川に沿って渓谷をさかのぼります。短いトンネルや鉄橋、落石覆いは地形の険しさを表しています。保津川がΩ型に大きく蛇行する個所は、少し長いトンネルで短絡します。
やがて周囲が開け亀岡盆地に出るところから、保津川が右に分かれていきます。蒸気機関車は絶気して築堤を下り、右に大きくカーブすると馬堀駅に到着です。現在は、この手前に嵯峨野観光鉄道のトロッコ亀岡駅ができています。
馬堀駅を発車した京都行きの上り列車は、カーブを曲がりきって水田の中を保津峡に向かって速度を上げていきます。蒸気機関車は、この直線の築堤では煙をよくはいてくれました。
山陰本線京都口に特急が登場するのは、1972年の日本海縦貫線の電化完成により、大阪−青森間の特急“白鳥”が電車化され、仕事にあぶれた特急用のキハ82系気動車が急行“丹後”の何往復かを置き換え、特急“あさしお”となったときです。
京都から城崎行きや綾部と西舞鶴で2回も方向転換する宮津線経由もあり、白鳥に比べて短距離で速度も遅く、キハ82も落ちぶれたものだと感じました。すでに蒸気機関車がなくなっていたこともあり、 保津峡に撮影に行く気も失せてしまいました。それでも、今の特急に比べれば食堂車も連結していて、立派な編成だったのですね。
あさしおが登場する4〜5年前にも、保津峡にキハ82系の特急が走ったころがあります。京都発の大阪経由の山陰本線博多行き特急“まつかぜ”の迂回運転です。この日は福知山線で事故があり、京都から大阪を経由して福知山線を通る特急“まつかぜ”が、急遽京都から 直接山陰本線経由で運転されました。馬堀で待ちかまえていると、保津峡の霧の向こうから山陰のクイーン、キハ82が現れたときは、とても美しく感じました
保津峡にディーゼル特急が走るのはこれが初めてではなく、膳所駅付近で東海道本線が事故で不通になった際に、大阪−青森間の特急“白鳥”(当然キハ82系です)が、京都−敦賀間を山陰本線−舞鶴線−小浜線経由で迂回しています。
今では事故のみならず、台風接近でもすぐに列車を運休させてしまいますが、当時の国鉄には日本の輸送をになう列車を走らせるという気概と使命感があったように思います。 高速道路や航空機などの代替手段が十分でなかったことや、気動車で運用に汎用性があったこと、そして何より国鉄職員が多く駅や運転に人の余裕があったから可能だったとも言えると思いますが。
その後も、急行“丹後”の格上げで特急“あさしお”は本数を増やし、他の全国のディーゼル特急と同様にキハ181系化されてからは食堂車もなくなり、寂しい姿となります。そんな1984年の秋、新幹線で京都駅に降り立った際にふと保津峡の風景を見てみたくなり、 15年ぶりにキハ40系の普通列車で馬堀まで往復しました。馬堀駅で下車して保津峡寄りで待っていると、夕日をあびてキハ181系の“あさしお”が駆け抜けていきました。 それから既に28年。
2003/09記
2012/11改