筑波鉄道 |
常磐線の土浦と水戸線の岩瀬をむすんでいた筑波鉄道が廃止されたのは1987年の3月31日、奇しくも日本国有鉄道(国鉄)の消滅と同じ日でした。1918年に筑波鉄道として開通し、1945年に同じ常磐線の取手と水戸線の下館間の常総鉄道と合併して常総筑波鉄道となり、1965年にはすでに竜ヶ崎鉄道 を併合していた鹿島参宮鉄道と合併し、路線延長122.9kmの日本一の非電化私鉄、関東鉄道の筑波線となりました。
関東鉄道成立は当時は、常総線と筑波線は同じような線でしたが、東京通勤圏に組み込まれた常総線が複線化、長編成化で大きく発展する一方で、赤字の筑波線は1979年に筑波鉄道として、 鹿島鉄道となった鹿島線とともに分離されました。それから8年後に筑波鉄道は廃止になり、取手と土浦の起点の立地の差により明暗を分けました。
関東鉄道は、高度成長期に廃止された中小私鉄から車両を買い集め、西の高松琴平電鉄と並んで各地の中古車に出会える鉄道でした。通勤客で常総線が混雑するようになると、車種が国鉄のキハ35系や国鉄の廃車部品流用の自社発注の更新車に統一される一方で、筑波線は最後までクロスシートの気動車が残り、観光シーズンにはロッド式のディーゼル機関車が国鉄から乗り入れの筑波号の客車を牽引するなどファンにとっては楽しい鉄道でした。
筑波鉄道の廃止が決まったっとき、どうしても会っておきたい車両がありました。1969年の江若鉄道の廃止時に関東鉄道に引き取られた車両の中で、唯一原形を保っていたキハ511号です。
江若鉄道最後の、そして戦後唯一の新造車として1963年に京都の東海道線の向日町駅のそばにあった大鉄車両でキハ30として製造され、後にキハ5120に改番された江若鉄道の看板車両もわずか6年で関東鉄道に移籍し、筑波線の主力の1両として活躍してきた車両です。江若鉄道時代の姿は、左のメニューから“江若鉄道”をクリックしてご覧ください。
廃止の前年、1986年の夏休みの1日、最後に1枚のこった青春18切符で上野から常磐線に乗り、降り立った土浦駅の筑波線ホームに出迎えてくれた車両は、国鉄のキハ30の払い下げキハ301号でちょっとがっかり。新土浦まで1駅乗って真鍋機関区を訪問しました。
建屋内には、観光シーズンに国鉄から乗り入れる12系客車の筑波号を牽引するディーゼル機関車DD502が休んでおり、屋外の側線には立派な気動車キハ503やエンジンのないキクハ11など、電車タイプの車体を持つ筑波鉄道オリジナル車をはじめ、北陸鉄道能登線からやってきた車端に荷台を持つキハ541や元国鉄のキハ41000型のキハ461が留置されていました。
そんな中に、幸運にもお目当てのキハ511が釧路の雄別鉄道からやってきたキハ762とならんで休んでいました。正面の窓がアルミサッシからHゴムの固定になり、小さな方向幕がつぶされて表情が少し変わっていましたが、車内に入ると座席配置や丸い蛍光灯は17年前の江若鉄道当時のままので、“大鉄車両”のメーカプレートも残っていました。でも、隣にならぶ新潟鐵工所製のキハ762と見比べると、一流メーカと三流メーカの差は歴然としたものがありました。
帰りに新土浦駅で待っていると、やってきたのは国鉄キハ10型の払い下げのキハ821号。今ではキハ10系は貴重な存在ですが、当時は払い下げ車が各地の中小私鉄にいるつまらない車両でこれまたがっかり。結局、私が筑波鉄道に乗車したのは、土浦−新土浦のわずか1区間だけでした。
筑波鉄道が廃止になった翌日から、関東鉄道がJRバスと共同で東京駅と筑波センターを結ぶ高速バスが開通し、その後増発に増発を重ね今では早朝から深夜まで概ね10〜15分ごとに成長しました。その後、筑波鉄道の旧筑波駅を結ぶ筑波山ルートの高速バスも開通し ています。建設中の秋葉原と筑波を結ぶ常磐新線、筑波エクスプレスが開業すれば環境はまた大きく変わると思われます。
筑波鉄道が鹿島鉄道のように今まで持ちこたえていれば、筑波エクスプレスのフィーダー路線としての活路が開けていたかもしれません。
2003/4記