都電の花電車 |
都電荒川線新装記念乗車券 丸い新装記念乗車券はソノシートになっており、三遊亭圓右師匠の語りで「音でたどる都電荒川線」が収録されています。CDの時代になり、今ではこれを再生できるレコードプレーヤーを探すのが大変です。
1972年の11月に、それまで神田須田町、上野駅から東側の江東地区を中心に残っていた都電が廃止されました。このとき、早稲田−荒川車庫間の32系統と、赤羽−三ノ輪橋間の27系統のうち王子駅−三ノ輪橋間だけは、代替バスを運行する適当な道路がないことなどを理由に、5年間に限って廃止を先送りすることになりました。その後、32系統と27系統を統合して、都電荒川線として早稲田−三ノ輪橋間が直通運転されるようになりました。この5年の間に、石油ショックや公害問題の深刻化など、社会情勢の変化があり、美濃部都知事の英断により都電荒川線が存続することが決まりました。存続にあたって、一部の区間で線路の移設を含む軌道や架線の改修、ワンマン化や安全地帯のかさ上げによる車両のステップレス化などの合理化、近代化が行われ、それまで使用されてきた車両のうち6000型は廃車、7000型は車体新造、7500型は改造が行われました。
1977年の秋頃から、ワンマン化された7000型や7500型が順次投入され始め、改造による車両不足を埋めるため、それまで余り見かけなかった6000型が最後の活躍をしていました。
1978年4月1日からの、新しくなった都電の再出発を都民にPRするため、廃車になる6000型の中から5両を花電車に改造して、4月1日をはさむ前後の1週間ほど、荒川線全線を運行することになりました。
まず、3月下旬に6000型の装飾車が2両、車掌さんが乗る最後の営業車としてデビューし、多くの乗客を集めました。月末近くになるといよいよ花電車の運転が始まりました。5両の花電車の前後に先導車および控え車として6000型の装飾車が付き、7両の電車が荒川線を走り始めました。
4月1日から全車がワンマン化されると、今度は新しい7000型が先導車および控え車として、花電車の前後に付きました。この間、沿線には多くの都民がカメラを持って駆けつけ、写真の王子駅前などでは、花電車の通る時間帯には多くの警察官が出て、交通整理にあたりました。
都交通局も花電車のスポンサー探しには苦労したようで、2号車のTV朝日と3号車のライオン歯磨き以外は、ムーミンの乗った1号車も含め、都の外郭団体が資金を提供した様に思います。
花電車の番号は、乙6212号のように、元の番号に貨物車を表す“乙”を付けていました。
花電車の運行が終わると、6000型は応急車として残る6152号を残して廃車となり、それまでの赤帯から青帯に変わった7000型と7500型のワンマンカーに統一されました。6152号が緑とクリームの1950年代の塗色でイベント車として復活するのは、それから10年あまり後のことです。
2001/01記