天北線

天北線の列車

天北線の想い出

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猿払原野の
車窓
天北線 '74.7

急行天北と
キハ22の交換
南稚内 '85.7

寝台車を使った
急行“天北”
南稚内 '85.7

     

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天北線は、宗谷本線の音威子府から分かれて浜頓別へ抜け、オホーツク海に沿って北上して猿払原野から再び内陸に分け入り、声問で宗谷湾に出て宗谷本線の南稚内に至る路線でした。後から開通した幌延経由の天塩線が宗谷本線を名乗る前は、内地と樺太を結ぶメインルートでもあったそうです。

廃線まで優等列車が運転され、1970年代には、天北線経由で札幌と稚内を結ぶ急行“天北”がキハ56系の気動車が使用されていました。

最初で最後の天北線に乗ったのは、1974年のことです。日本一の赤字線と言われた美幸線が分岐する美深で、C55の牽く宗谷本線の普通列車を追い抜く急行“天北”に乗り換えて浜頓別で下車して1泊。翌朝の普通列車で稚内を目指しました。

猿払原野の何もない車窓が、遠くへきたことを思わせます。青函トンネル開通以前の最長駅間距離は、天北線の小石−曲淵間17.7kmでした。どんなところなのかと興味があったのですが、全く人の気配のない山の中で、駅はおろか仮乗降場もない理由に納得。

1985年頃になると、札幌と稚内を結ぶバスに対抗するためか、宗谷本線経由の急行“宗谷”と天北線経由の急行“天北”は、ボックスシートで冷房無しのキハ56系から、回転式リクライニングシートで冷房を装備する14系に置き換えてサービスアップがはかられます。

夜行の急行“利尻”と共通運用を組む編成は、昼行でも札幌側に2両の寝台車が組み込まれていました。写真にある上り“利尻”の稚内への送り込みになる下り“天北”もそうです。線路の規格が低いためか、宗谷本線内のDD51に対して、天北線内はDE10型ディーゼル機関車が牽引にあたっていました。

ディーゼルカーから客車列車への転換は珍しい例ですが、スピードでバスに対抗できないためか、急行“天北”は“宗谷”とともに、3年ほどでキハ40を改造した高出力機関を装備した気動車に置き換えられます。

国鉄分割民営化から2年余りを経た1989年に、標津線、名寄本線とともに北海道の長大ローカル線の天北線は廃止となりました。

2007/03記

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