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ベルリン・ノルド駅

ベルナウアー通りの先にあるベルリン・ノルド(北)駅に向かいます。この駅は、S1、S2、S25系統のSバーンの路線上にあり、都心部は地下を走っていて、駅のコンコースには、ベルリンの壁があった当時の駅の写真と解説のパネルが並んでいます。

ベルリン市内を南北に貫くSバーンのこの路線は、市の北と南が西ベルリン、中央部が東ベルリンに分断されました。中央部は地下路線だったため、国境で折り返し運転をするのではなく、東ベルリンに属する駅は全て閉鎖されて“幽霊駅”となり、電車は東ベルリン内では停車することなく、全部の幽霊駅を通過して西ベルリンの北部と南部をを結んでいたのだとか。地下駅で煉瓦を積み上げている写真や、封鎖された駅構内と今を比較している写真やも掲出されています。

ベルリン・ノルド駅に向かうトラム 東ベルリンの壁際にあったこの駅は幽霊駅だった
東の鉄道員や家族が封鎖されたベルリンノルド駅構内の壁を飛び越えて地下の線路づたいに西ベルリンへ脱出

ベルリン・ノルド駅の中にも抜け道があったようで、駅構内の壁を飛び越えて、地下の線路づたいに無事に西ベルリンに脱出した東の鉄道員や2組の家族がいたそうです。そんな歴史を伝える駅に、Sバーンが入線してきます。

地下の壁で駅が封鎖されていたときと今の比較写真 ベルリン・ノルド駅にSバーンが到着

 

フリードリッヒ・シュトラッセ駅で乗り換え

地下を南北に走るSバーンと、高架線を東西に走るSバーンが交差する、フリードリッヒ・シュトラッセ駅でポツダム行きのSバーンに乗り換えです。ここは東ベルリンだったところ。壁のあったときは、地下駅の方は幽霊駅だったのでしょう。

西に向かうSバーンは、環状線と交差する途中駅のヴェストクロイツで分岐して、前日のベルリン到着時にICEから乗り継いだベルリン・シュパンダウに向かうS5とポツダム行きのS7、それにヴェストクロイツ止まりのS75があります。

フリードリッヒ・シュトラッセ駅
高架ホームの下を流れるシュプレー川
S75系統は途中駅止まりのため見送り
高架線のSカーブを行くSバーン S7系統ポツダム中央駅行きが来た

最初にやってきたS75は見送り、次のS7に乗車します。先頭車の前と中間のドア部分、跳ね上げ式のロングシートのスペースには、車椅子、乳母車、自転車、スーツケースのステッカーが貼られています。必ずと言っていいほど乗っているのは自転車。

隣の列車線を走る黄色い列車は、ベルリン周辺で運行している東ドイツ鉄道ODEG、シュタッドラーのオール二階建て電車の快速RE。赤いDBの中で目立ちます。

Sバーンの車内 隣の列車線を走るODEG運行のRE2系統
ベルリン中央駅の側面 ベルリン・グルーネヴァルト駅付近のSバーン

次は、ベルリン中央駅。かつての境界線を越え、旧西ベルリンのSバーンレールテ駅を全面改築した巨大な建物に、側面から高架線で進入していきます。

Sバーンの分岐駅であり環状線との交差駅でもあるヴェストクロイツ駅は、架線のある列車線やSバーンの留置線もあり、複雑な線路配置が次のベルリン・グルーネヴァルト駅まで続いています。

 

ベルリン・グルーネヴァルト駅17番線

そのベルリン・グルーネヴァルト駅で、ポツダム行きのSバーンから途中下車。ここは、緑に包まれたベルリン西部の高級住宅地。19世紀末に建てられた小さな駅舎は木造でしょうか。高架で2面4線のSバーンのホームを有する駅です。煉瓦造りの高架下の通路、Sバーンのホームとは離れた駅舎側に、17番線の表示が出ています。

ベルリン・グルーネヴァルト駅のSバーン ベルリン・グルーネヴァルトの駅舎
高架下の通路にある17番線の表示 ホームへの階段にある17番線のプレート

階段の途中の壁に、17番線と1941-1945の数字のあるプレートがあり、その設置が1998年のようです。階段を上ると、樹木に包まれた通路に鉄板が敷き詰められ、そこを抜けると1本の線路の両側にホームが残っています。ナチス・ドイツ時代、大勢のユダヤ人をベルリンから収容所に送り出したのがこの駅で、その移送用に用いたのが、旅客用のホームから離れた貨物列車専用のホーム、17番線でした。

1941年から1945年まで、その総数は17,000人に及ぶとか。さすがはドイツ、正確な記録が残されていたのでしょう、両側のホームに敷き詰められた鉄板には、列車が発車した日付ごとに、ユダヤ人の数と行き先が明記されています。多くは、移送の中継地点となったチェコのテレジエンシュタットですが、後半になると絶滅収容所ポーランドのアウシュビッツの名前も出てきます。

鉄板が敷き詰められた木の間をを抜けると 線路が現れホームには鉄板が敷き詰められている
ホームの鉄板1枚ごとに日付とユダヤ人の人数に送り先が浮き彫りになっている 総勢17,000人といわれている
ホームの先に設置されたプレートの前には生花が手向けられていた

ホームの先端の側面に掲げられたプレートの、一番上の行にはヘブライ語と思われる文字があり、その前には生花が手向けられています。

ホームの階段にあったプレートからみて、ドイツ鉄道がこの場所を整備したのは1998年のようです。ブランデンブルク門の近く、広大なベルリンの一等地に、西ドイツ時代の発案から議論を重ね、17年を経てホロコースト記念碑が完成したのは2005年。いずれも戦後半世紀以上を経過しています。来日したメルケル首相が歴史認識について語った“過去の総括は和解のための前提になっている”という具体的な事例を、現地で確認することができました。


ポツダムのトラム

ベルリン・グルーネヴァルト駅から、再びSバーンで終点のポツダム中央駅へ。ポツダムはベルリンの南西に位置し、分断時代は西ベルリンと国境を接していた東ドイツに属する隣町。西ベルリンとポツダムの間にも壁があったのだとか。駅前の停留所には旧共産圏の標準型トラム、タトラカーKT4Dの姿があります。

ポツダム駅前でDBを越える橋を渡る ポツダム駅前からタトラカーに乗車
タトラカーの車内 アインハイト広場の停留所

ベルリンのCゾーンまで有効な1日乗車券には、隣町ポツダムのトラムやバスも含まれます。まずは、駅前の停留所から北に向かうタトラカーの重連に乗車。

 

オランダ地区

電車は、教会や旧市庁舎のある旧市街から市内を貫くフリードリッヒ・エーベルト通りを北へ、アインハイト広場で下車。近くのオランダ地区は、赤煉瓦造りが美しいアムステルダムのような街並み。プロセイン王国時代の18世紀前半に、オランダからの移民を受け入れてオランダ人居住区をつくったのだとか。そういえば、川と湖で囲まれた平坦なポツダムは、オランダに似ているかも。

フリードリッヒ・エーベルト通りのタトラカー オランダ地区の街並み
赤いレンガのオランダ地区 オランダ地区の教会

 

ナウエン門

トラムの走るフリードリッヒ・エーベルト通りに戻って北へ。やってきたのは、シュタッドラーの5車体連接の低床車。電車の行く先に、ポツダムの街を取り巻く壁に18世紀半ばに設けたナウエン門が見えてきます。門をくぐる部分では複線の幅が確保できず、線路がガントレットになっています。

ナウエン門をくぐるトラムは、シーメンスの低床車コンビーノ。何回かトライしましたが、歩行者やクルマが写り込み、適当なところで諦めます。ポツダムで見かけたトラムはこの3種類で、今では東ドイツ当時からのタトラカーは少数派になってしまったようです。

シュタッドラーのヴァリオバーン ナウエン門
ガントレットになったナウエン門をくぐるシーメンスのコンビーノ

ポツダムといえば第二次大戦の末期、ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月、米英ソ3ヵ国の首脳が集まり戦後処理を話し合ったポツダム会談と、米英中3ヵ国が日本に無条件降伏を求めたポツダム宣言が思い浮かびます。どこかの首相と同様に、ポツダム宣言をつまびらかに読んだことはありませんが。

その会談が行われたのが、市の北の郊外にあるツェツィーリエンホーフ宮殿。トラムに乗ってこのナウエン門をくぐり、さらにバスに乗り換える必要があり、今回はカットしてしまいました。


 

 

 

 

 

 

  

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