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Uバーンでベルナウアー通りへ

今朝、ドイツ連邦議会で100番のバスを降りてから半日間、随分歩きました。1日券のもとを取るべく、これからは乗り物を利用することに。

Uバーンのアレクサンダープラッツ駅から、U8の電車で北東へ3駅。ベルナウアー・シュトラッセ(通り)駅は、近くにベルリンの壁が保存されているところ。地上に出ると、東西方向にトラムの走るベルナウアー通りに沿って、鉄筋の列が続いています。これが、西ベルリン側の壁があったところで、鉄筋の高さは壁の高さを示しているのだとか。

Uバーンのアレクサンダープラッツ駅 ベルナウアーシュトラッセ駅
ベルナウアー通りを行くトラム 壁のあとを示す鉄筋の向こうにトラム

 

ベルリンの壁を今に伝えるベルナウアー通り

歩道には、ベルリンの壁1961-1989の金属プレートも埋め込まれています。Uバーンのベルナウアーシュトラッセ駅からベルナウアー通りを西南西へ1km程。地下を走るSバーンのベルリン・ノルド駅の近くまで、トラムで2停留所分の距離の間に、ベルリンの壁と緩衝地帯が保存されています。

中間にあるトラムの停留所名は、ズバリ“ベルリンの壁”。ここは通りの南側の東ベルリンからから北側の西ベルリンに向け、壁を越え、地下にトンネルを掘り、脱出の舞台となったところで、犠牲者も多く出たのだとか。

道路に埋められた壁のあとを示す石 歩道にベルリンの壁1961-1989のプレート
左が東、右が西ベルリンだった 間の緑地は緩衝地帯のあと 壁があった時代のベルナウアー通り周辺の模型

幅50mほどの緩衝地帯の跡は、大部分に芝生が植えられ緑地となっていて、この中に当時の様子を伝えるパネルや看板等の展示物があります。周辺の模型を見ると、西ベルリン側に属したベルナウアー通りに沿って壁があり、東ベルリン側に緩衝地帯が配置されていて、現在のUバーンベルナウアーシュトラッセ駅のある交差点で、壁が直角に北に向きを変えていたことがわかります。

緩衝地帯の南側に、東ベルリン側の低い壁が残っている個所もありますが、アパートの建物自体が壁になったところでは、緩衝地帯に面した窓が全て塞がれ、壁一面真っ白な異様な姿です。この壁面を使って、年代別の状況や脱出劇を伝える写真等のパネルが掲出されたり、壁に直接写真がプリントされています。

アパートの壁に掲げられた壁のあった時代の写真 一部に東ベルリン側の低い壁が残っている
年代ごとの壁と周辺の写真 地下に掘ったトンネルで西ベルリンへ脱出の様子

ベルナウアー通りが最初に分断されたとき、通りに面した東ベルリン側のアパートは入口が塞がれたものの、窓から逃げる人々が続出したそうです。当局は、まずは窓を塞ぎ、次いで通りに面したアパートを撤去して緩衝地帯にしたのだとか。アパートの外壁にプリントされた写真から、脱出する人々の緊張感が伝わってきます。

現在残っている壁は、工場生産のコンクリートパネルを輸送してきて、現場でつなげたように見受けますが、建設当初の壁はブロックを積み上げたような、手作り感溢れるところも写真からわかります。

窓が塞がれた東ベルリン側のアパート 緩衝地帯に当時を解説する案内板が並ぶ
 窓からロープで降り、トラックの床下に隠れ、東側から西側へ脱出の様子

緩衝地帯の中に建っていた和解教会は、監視の邪魔になるとのことで1985年に東ドイツ当局によって爆破されました。その跡に、統一後の2000年に“和解の礼拝堂”が再建されています。その内壁は、がれきの中から破壊された教会のガラスやタイル等を拾い、土に混ぜて層状に突き固めてあるのだとか。また、近くには3つのオリジナルの鐘が残されるとともに、和解の像が立てられています。近くにコンクリートの土台だけが残るのは、破壊されたアパートのようです。

緩衝地帯のあとに和解教会の跡に再建された和解礼拝堂とその内部 礼拝堂の右側にはオリジナルの鐘が納められている
和解の像 破壊された土台が残る

追悼の窓に、3段になって並ぶ多くの顔写真は、西ベルリンに脱出を試みて命を落とした人々でしょう。近くには石碑と十字架も立てられています。

追悼の窓に写真が掲げられた西ベルリンに脱出を試みて命を落とした人々
石碑と十字架

ベルナウアー通りは西ベルリンだったので、ここを走るトラムは統一後に東ベルリンから延長された路線でしょう。すぐ先のSバーンのベルリン・ノルド駅前が終点になっています。通りの向こう側に立つ瀟洒なアパートは、窓を塞がれた東ベルリンのアパートとの差がきわだちます。西側陣営のショーウインドーだった西ベルリンの発展を、東の人々に見せつける目的もあったのかもしれません。

今はトラムの走るベルナウアー通りと瀟洒な西ベルリンのアパート
今も残る西ベルリン側の壁 この地区の模型を前に説明を聞く修学旅行の小学生

ベルナウアー通りは、ベルリンの壁を知るには一押しの場所と思われますが、一般的なパックツアーのコースに入っていないのか、観光バスは見かけず、旗の後ろについて歩く団体客もいません。そんな中で、ミュンヘンを発ってから3日ぶりの日本語が聞こえてきます。リュックを背負った十数人の小学生の集団です。引率の先生に声をかけてみると、ミュンヘンの日本人学校6年生の修学旅行だとか。ベルリンで得た貴重な体験が、これからの彼らの人生の糧となることでしょう。

壁を越えて、トラムの走るベルナウアー通りへ。通りに面して、ベルリンの壁記念センターがあります。残念ながら資料館は工事で休館中。でも、隣接する展望台はエレベータは止まっていたものの階段で上れます。

ベルナウアー通りのトラム ベルリンの壁記念センター
記念センターに掲げられた壁のあった当時の写真 記念センター展望台から見たベルナウアー通りと緩衝地帯

上から見下ろすベルナウアー通りと壁と緩衝地帯の跡。記念センターの目の前だけは、長さ200mほどに渡って、双方の壁と間の緩衝地帯がそのままのかたちで保存され、屋上に探照灯を備えた監視塔も残っています。緩衝地帯にはセンサーが設置され、地雷が埋められたり警察犬が放たれていたところもあったのだとか。

当時のままの姿で保存されている西の壁と東の壁 間の緩衝地帯とその中に建つ監視塔

 


 

 

 

 

 

 

  

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