東海道新幹線

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新幹線の切符

新幹線の想い出

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新幹線の高速
試験車951型
'70.6 鳥飼基地

951型試験車
の車内
'70.6 鳥飼基地

新幹線0系の台車
DT200
'70.6 鳥飼基地

新幹線救援用
ディーゼル機関車
'70.6 鳥飼基地

300系試作車の
試運転列車
'91.12 新大阪 
         
300系試作車
JRマーク
'91.12 東京 
300系試作車
試運転中の普通車
'91.12 東京-新大阪 
300系試作車
試運転中のグリーン車
'91.12 東京-新大阪 
300系試作車
運転台の機器
'91.12 東京-新大阪 
300系試作車
運転台から前方
'91.12 東京-新大阪 
         

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企画切符 ひかり & 京都 新幹線エコノミー切符
国鉄の切符のケースは0系新幹線

1980年代の新幹線の企画乗車券。左は冬季閑散期限定発売の東京都区内から京都市内(当時は国鉄ですから東日本や西日本の在来線にも乗れます)の“ひかり & 京都”(2枚綴りのかえりの部分のみ)、右は現在でもおなじみの東京都区内−大阪市内間50枚綴り回数券新幹線エコノミー切符(真ん中から左の乗車券の部分のみ)。

定期券で下車して手元に残しましたが、“ひかり & 京都”の往路は京都下車時に、“エコノミー切符”の特急券部分は新幹線の改札口で回収され残っていません。

企画乗車券がコンピュータ発券になる前は、このような切符が発売されていました。少しでも安く乗るために、冬季限定の“ひかり & 京都”等を利用していましたが、1980年代も半ばになるとチケット屋での回数券のばら売りが一般化し、これの利用に移行しました。

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夢の超特急として1964年に開業した新幹線。当時は0系の12両編成で、途中名古屋と京都に停車するひかりと各駅停車のこだまが各1時間に1本、所要時間は東京−大阪間4時間10分と5時間10分で全車指定席だったと思います。

開業時には、平行する在来線では夜行を除く151系電車の特急“こだま”、“つばめ”、“はと”、“富士”などは廃止されたものの、新幹線や特急はまだまだ特別な急行列車で、一般の人が使用する在来線の急行や準急は昼夜を問わず数多く残されており、急行“なにわ”や“せっつ”の所要時間が7時間30分〜8時間、新大阪での乗り換えを考えると、高い新幹線の超特急料金を払うメリットを感じる人が少なかったのではないでしょうか。

路盤も落ち着き速度制限が解除され、1965年10月改正で、ひかりが3時間10分、こだまが4時間10分にスピードアップされましたが、その分、特急料金も値上げされたように思います。

1967年10月改正では、ラッシュ時はそれぞれ20分ごと(ひかりは休日運休あり)昼間は30分ごと(閑散期のひかりは1時間ごと)の運転で、こだまは編成の半分が自由席になり、運転本数もひかりに比べやや多くなっています。

この頃の東京−大阪間の運賃1730円(以下いずれも2等の場合)に対して“ひかり”の超特急券が1300円、こだまの特急券が1100円(自由席は100円引き)です。当時の大卒初任給は2万円台ではなかったでしょうか。週5日制はまだ普及しておらず、新入社員が1日働いて1000円の時代ですから、若い人が気軽に乗れる乗り物ではなかったと思います。

在来線では、東京−大阪間の急行料金が400円(急行霧島や高千穂で鹿児島まで行っても500円)、名古屋から山陽・九州方面など、新大阪まで割高な新幹線を使うことなどは考えられないでしょう。

在来線にも多くの利用客があり、超特急料金の差で駅弁が3つも買えるのであれば、新幹線を使うにしても、1時間余計にかかっても全車指定の“ひかり”ではなく“こだま”の自由席を選ぶ人も多かったと思われます。

その後、経済の高度成長により日本人の所得水準も向上したことと(運賃や料金も上がりましたが)、国鉄が新幹線の増発と引き替えに在来線の優等列車を削減していき、新幹線以外に選択肢がなくなってしまい、新幹線の利用が一般化したのが1970年の大阪千里丘陵で開催された万国博と、これに引き続いて国鉄がキャンペーンに打って出たDiscover JAPAN の頃からと思われます。

“ひかりは西へ”のキャッチフレーズ、1972年の岡山開業では“ひかり”中心のダイヤとなり、並行する在来線の特急は当然のこと、急行“鷲羽”も一気に廃止されています。3年後の1975年には“ひかりライン”として博多へ延長されています。

当時の新幹線は0系のみで趣味的には魅力を感じず、営業車の写真は1枚も残していません。実際には、開業時には0系電車以外に、停電時等の救援用としてDD51をベースにした青と黄に塗り分けた箱形のディーゼル機関車や、保線用の採石運搬貨車、これを牽引する当時の入れ換え用標準機DD13を標準機に改軌したディーゼル機関車等も配置されていました。

開業から5年を経た1969年に、次世代型新幹線の高速試験車が登場しています。951型2両編成の車両は、塗色は東海道のブルーとアイボリーですが、先頭の鼻が長くなり、東北・上越新幹線の200系によく似たデザインです。

鳥飼の基地で見学させてもらった試験車の中にあった計測器は、まだまだアナログのペンレコーダの時代で、シートは当時の0系と同様の座りごごちのよくない転換式です。この頃はサイリスタチョッパ制御の黎明期ですが、その性能は961型、962型試作車を経て後に登場する東北・上越新幹線の200系に受け継がれています。

1982年の東北新幹線開業から数年後、東海道新幹線にフルモデルチェンジの100系試作車が登場します。試作車の側面は後に登場する量産車と異なり、1座席ごとに狭い窓がならぶ200系や100系の後期型と同じデザインで、100系の異端児でした。

この頃、日本機械学会の関連で、営業開始前の100系に試乗できる機会がありました。それも、試運転電車が浜松工場に入場する機会をとらえて、東京から浜松へ、さらにはそのまま浜松工場まで試乗できるという願ってもないチャンスです。でも、残念ながら仕事の都合で時間が取れず絶好の機会を逃してしまいました。

1987年春の国鉄分割民営化を経て1990年代になると、ヨーロッパの高速列車に後れをとっていた新幹線の巻き返しが始まります。1992年春のダイヤ改正で、1日わずか2往復ですが、最高時速を50kmアップして270kmとした300系新幹線“のぞみ”の登場です。

新しい技術のため、ダイヤ改正の1年前から営業編成と同じ16両の試作車を使って試験走行が続けられてきました。そんな中、1991年の年末になって再び機械学会の関連で300系の試運転列車に乗車できる機会がめぐってきました。今回も仕事上の支障はなくはなかったのですが、無理矢理に都合をつけて試乗を申し込み、早朝5時半過ぎに夜明け前の東京駅八重洲の新幹線改札口に集合しました。

試運転列車は、想定される営業ダイヤと同じ6時に東京駅を発車し、新横浜に停車、営業運転では通過する名古屋と京都にも停車するため2分プラスして、8時32分に新大阪に到着するダイヤです。試乗客用に編成中央のグリーン車が用意されています。乗車した第一印象は“汚い”。営業車ではないのでシートに枕カバーがないのは当然として、いつから掃除をしていないのでしょうか、明るい色の窓枠には積もった埃が目立ちます。

新横浜から京都までは、時刻と速度を読み上げる声が響きます。この頃私はTGVなどヨーロッパの高速列車に乗車した経験がなかったので、時速270kmは初めての体験です。線路のカントが速度に合わないのでしょう、カーブでは遠心力を感じます。グリーン車ですが、当時いつも選んで乗っている100系G編成のフットレスト付きの普通車に比べても乗り心地はいまいちという印象でした。

夜が明けてきたころ、交代で先頭車の運転台の見学をさせていただきました。途中の各車両には、座席の上に板を渡してその上に計測器やパソコンを固定し、走行中のデータ収集がおこなわれていました。名古屋や京都での停車中は、珍しい車両が来たと、ホームの乗客の注目を浴びました。

こうして、あっという間に時間が過ぎ、8時32分定刻に新大阪に到着後、改札口を出たところで現地解散となりました。試乗は無料ですが帰り道は各自で負担です。でも、まだ朝早く時間はたっぷりあります。しばしの休憩の後、当時はチケット屋でばら売りしていた青春18切符で、往路の4倍の時間をかけて東京を目指すのでした。

2003年1月

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