釧網本線

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キハ22の
普通列車
原生花園  '69.8

DE10の牽く
混合列車
原生花園 '69.8
C58の牽く
混合列車
原生花園 '69.8
峠越えにはC58の
前にDE10の補機
'69.8
       
C58の牽く
混合列車
弟子屈 70.3
C58の牽く
混合列車
標茶 70.3
吹雪で立ち往生した
C58の牽く混合列車
清里町 70.3
ラッセル車が通って
やっと開通
清里町 70.3
       

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弟子屈駅(今の摩周駅)の入場券

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網走から釧路に向かう1992年10月の車窓をご覧下さい

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釧路と網走をむすぶ釧網本線。釧路湿原や斜里岳、知床連山、オホーツク海、原生花園などめまぐるしく変わりゆく車窓から、列車の旅の楽しさを味わえる路線です。

今では、観光シーズンに一部区間で運転されるトロッコ列車のノロッコ号や復活したC11のイベント列車を除けば、ステンレス車体のキハ54のワンマンカーが1両でわずかな乗客を乗せて行き来するだけの、とても本線と呼ぶには寂しい路線になってしまいました。

ここに写真のある、現役の蒸気機関車C58が活躍していた1970年頃は、釧路−網走間を通して運転される普通列車は、木造車を鋼体化したオハ62系を主体に、4両程度の客車の後ろに貨車を連結した混合列車でした。

弟子屈と緑の間だったでしょうか、峠越えのための補機として新製されたばかりのDE10が待機していて、C58の牽く列車が着くとその前に連結され、DL+SLの重連で勾配に挑んでいました。

急行列車も3往復あり、釧路から網走を経て小樽に至る「大雪」にはキハ56が入っていましたが、釧路−標茶間に併結され標津線の根室標津に向かう「しれとこ」は、区間運転の普通列車と共通運用のキハ22でした。いずれも、夏季には内地からの観光客を含む多くの乗客で賑わっていました。

原生花園は仮設の乗降場で、当時の全国版時刻表には掲載されていません。知床半島へは斜里(現在の知床斜里)で、阿寒国立公園へは弟子屈(現在の摩周)でバスに乗り換えですが、これらの道路は舗装されておらず、観光客を満載したバスは砂利道を土埃をあげて走っていました。

冬の流氷を見に来る観光客など珍しい存在で、屈斜路湖、摩周湖、阿寒湖をめぐる観光道路も、冬季は大半が閉鎖され、わずか日曜日に弟子屈駅と摩周第一展望台間に2往復のバスが運行(それも悪天候の時は運休)されるのみでした。また、釧路湿原はまだその価値がまだ認識されておらず、ただの荒れ地として、見捨てられていました。

1970年の3月中旬に、発達した低気圧により北海道全土が猛吹雪に見舞われ、道南を除く北海道の国鉄各線が麻痺したことがあります。白鳥を見に行った尾岱沼から根室標津に出て標津線の途中で雪が激しさを増し、乗り換えの標茶駅で待っていた網走行き普通630列車がC58に牽かれて到着したのは、定刻を大幅に遅れて夕闇が迫っていました。

乗車してからも各駅での停車時間が延び、ついに夜間にこの先に進むのは危険との判断から清里町駅に停車したまま動けなくなってしまいました。車掌さんの説明では、ラッセル車で雪かきをしないと走れないが、途中で交換した釧路行きが緑付近で吹きだまりにつっこんで立ち往生してしまい、この列車を先に救出しないとラッセル車が来れないとのことでした。

外は猛吹雪でも、客車の中はC58が送ってくれるスチームで暖かく、車内は空いていたので駅員さんから差し入れのパンを夕食に、一晩ゆっくり休むことができました。

翌朝、午前9時を過ぎたことだったでしょうか、釧路方面からDE10がラッセル車を推してきて、やっと線路が開通しました。網走行き630列車は15時間遅れで発車。斜里−網走間の車窓から、3日前にオホーツク海を埋め尽くしているのを見た流氷は、強風に押されてはるか沖合に一本の白い線となって後退していました。

釧網本線の全線を乗り通したのは、それから4年後の1974年の夏です。まだ客車列車は残っていましたが、無煙化が完了して牽引機はC58からDE10に交代していました。

二度目の全線走破は、国鉄からJR北海道になって4年目の1992年の秋です。この時の8mmビデオをデジタル化したので、網走から釧路までの車窓をご覧下さい。ノロッコ号や復活C11など、まだ存在しない時代ですが、列車はキハ54のワンマンカー単行運転になっていました。

2002/07記
2013/01追記

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