三陸鉄道

三陸鉄道の車両

三陸鉄道の記念乗車券

三陸鉄道の想い出

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北リアス線
の列車
'88.10
田野畑

北リアス線
の列車
'88.10
田野畑

北リアス線
の列車
'88.10 小本

南リアス線
の列車
'88.10 釜石

横浜博の
車両
'91.10 盛

横浜博の車両
の車内
'91.10 盛

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三陸鉄道の記念乗車券

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1980年代の国鉄の分割民営化を前に、お荷物であった赤字ローカル線の廃止や第三セクター化が押し進められました。当時の鈴木善幸内閣総理大臣のお膝元であった岩手県では、率先して廃止予定の国鉄の盲腸線であった久慈線、宮古線、盛線を引き継ぎ、これらの間の未開通区間をつないで国鉄大船渡線、山田線、八戸線とあわせて鉄道による三陸縦貫を目指して、県が主導する第三セクター三陸鉄道が設立しました。

日本鉄道建設公団の手で中断していた建設工事が再開され、吉浜−釜石間と田老−普代間が開通し、国鉄から久慈線、宮古線、盛線を引き継いで、特定地方交通線の三セク化第一号として三陸鉄道が開業したのが1984年の4月、それから四半世紀が経過し、2009年は三陸鉄道開業25周年を迎え、記念グッズも販売されています。

三陸鉄道のあと、全国各地で第三セクター鉄道が誕生しました。そのころ導入された車両が代替え時期を迎える頃、果たして何社が残っているかなどと言われていましたが、残念ながらその通りの道を歩んだ路線もあります。

三陸鉄道開業の頃はマスコミにも大きく取り上げられ、地元の熱烈な歓迎を受けて駅や列車は賑わい、営業収支も黒字を保ってましたが、四半世紀もたてば状況は大きく変わり、沿線の人口減や高齢化により厳しい経営を迫られているようです。

この地を初めて訪れたのは、久慈線も宮古線も盛線も開業する以前の1970年のことです。国鉄の路線が建設されるまで、列車の代替として国鉄バスが運行される例が全国で多く見られました。現在のJRバス東北に久慈−盛岡や龍泉洞・岩泉−盛岡の路線が残っていますが、三陸鉄道北リアス線に相当する久慈−小本間と岩泉に国鉄バス陸中海岸線が運行されていました。国鉄バスは均一周遊券で乗車できるありがたい存在でした。

お盆の帰省時期に重なる8月、上野発の夜行列車に途中駅から乗車するのは無謀なことです。郡山から始発の夜行臨時急行青森行きに乗り、午前3時頃の尻内(現在の八戸)で下車、八戸線の始発を待ちます。久慈で乗り換えた国鉄バスは、国道45号線というには余りにもお粗末な狭い砂利道を砂埃を巻き上げながら走ります。

翌年に岩手国体を控え、45線の改良工事が行われており、狭い道をダンプカー行き交います。行き違いができない場所では、車掌さんが下車して、バックするバスを誘導します。半分は定期観光バスのような使命も持っていたのでしょう、国鉄バスは、国道からはずれて黒崎灯台や北山崎に立ち寄り、それぞれ20分程度の休憩をとります。

当時のガイドブックには、マイカーによる国道45線の走行は推奨しないとまで書かれていました。それほど酷い道です。久慈から小本まで、6時間近くに及ぶ運転手さんのプロのハンドルさばきに感心し、小本で乗り継いだ岩手県北バスで真崎までまた1時間、ここから船で1時間以上かかって宮古の浄土ヶ浜に着いた時には、もう夕刻になっていました。尻内まで夜行列車を利用しないと、途中の宿泊なしでは宮古までたどり着けなかった時代です。

三陸鉄道北リアス線に初めて乗車したのは、それから18年後、三陸鉄道開業から4年後のことです。田野畑からバスで、再び北山崎を訪れました。あまりに便利になったので感激しました。帰りは小本で下車して、岩泉から盛岡まで早坂高原線のJRバスを利用しています。

ここに、1991年の南リアス線の記念乗車券があります。料金は700円。釜石から三陸の単純往復より安かったかと思いますが、釜石−盛間を往復して十分にもとをとっています。このときは、横浜博のレトロ調ディーゼルカーにも乗ることができました。この車両、今はミャンマーにいるのだとか。

2009/6記

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