山陰本線 花園−嵯峨 |
今では嵯峨野線の愛称がつき、高架の複線を287系の新型特急電車や221系の快速や普通が行き交う山陰本線京都口ですが、単線非電化の線路を汽車が行き交った頃の、花園 −嵯峨間の写真をご覧いただきます。太秦駅はまだありません。1960年代後半の山陰本線に特急はなく、優等列車はキハ58系や55系で編成する急行でした。普通列車には、キハ10系や20系の気動車列車もありましたが、主力はオハ35系やオハ61系の客車をC57型蒸気機関車やDF50型ディーゼル機関車が牽引 する客車列車で、DD54の投入が始まると、C57牽引の列車が順次これに置き換えられていきました。
山陰本線京都口を担当するC57の配置は、今では蒸気機関車館となっている梅小路機関区と福知山機関区。梅小路機関区のC57は、いずれも1次型で正面型式入りナンバープレートのC575、正面以外の3枚が型式入りナンバープレートのC5715、 それにC5739、C5789、C57127、あと戦後のC59によく似た4次型のC57190の6両がいました。
梅小路機関区のC57の運用は、京都−園部間の朝夕の通勤列車を中心に、綾部まで午前の西舞鶴経由敦賀・豊岡行きを牽引していき、綾部−福知山間を舞鶴線のC58の前補機として重連で走って福知山機関区で夕刻まで待機し、夕刻の京都行きを牽引して戻る運用もありました。
休日朝の上りと夕方の下りには、休日運休となる京都−園部間の列車の機関車を一旦梅小路機関区まで回送するため、C57が重連となって牽引する旅客列車もありました。 朝と夕刻の光線状態の悪い中での撮影です。1枚目の写真だけは明るい中での重連ですが、2両目は何とD51。敦賀・豊岡行きに回送補機が連結されたのでしょう。
福知山機関区にDD54の増備が進むと、同区のC57は定期運用を失いますが、故障の多いDD54の代走として、C5741、C57128、C57152の3両がかなり頻繁に京都駅に姿を見せていました。福知山のC57はドームの後ろに重油タンクを乗せていたので、すぐに見分けがつきました。
そのDD54が1968年10月に、最初で最後のお召し列車を牽引したことがありました。ヘッドライトが窓上にある1次型3両のうち、2号機は数ヶ月前に急行出雲を牽引中に折れて脱落した推進軸に乗り上げて脱線転覆する、いわゆる棒高跳び事故を起こしたためか、お召し牽引機は1号機と3号機の重連となりました。
重連総括制御の可能なDF50と異なり、単機牽引が原則のDD54を重連にしてでも、お召しの先頭に立たせた関係者の勇気と苦労がうかがわれます。
1971年4月のダイヤ改正で、山陰本線京都口が無煙化されます。貨物列車を牽いていたD51も含め、DF50とDD54にバトンタッチ。梅小路機関区のC57は職を失い、全検切れのC5715と調子の良くなかったC57190は廃車、しばらくイベント列車用に残ったものもありますが、山陰や南九州に転属していきます。
2012/2記