大阪市電

大阪市電の車両

大阪市電の記念乗車券

大阪市電の想い出

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写真をクリックすると拡大写真が表示されます。

大型車
1650型
'68.6 梅田新道

大型車
1700型
'68.7 芦原橋付近
大型車
1800型
'67.6 弁天町付近
木造車の鋼体化
2500型
'68.7 春日出車庫
23番都島車庫行
2600型
ワンマンカー
'67.12 京阪東口
   
23番都島車庫行
2200型
ワンマンカー
'68.4 北浜 
23番港車庫行
2600型ワンマンカー
'68.4 淀屋橋 

臨時系統都島車庫行
3000型
'68.4 阪急東口

10番 守口行
3000型
'69.3 天六付近
10番 守口行
2600型
'69.3 天六付近
  
10番 守口行き
2600型
'69.3 天神橋筋6丁目
市電の車内
3000型
'69.3 阪急東口
初の非対称
2扉車 800型

'68.7 春日出車庫
3000型の試作車
 3000号と1644号
'68.7 春日出車庫
貨物電車
12号
'68.7 春日出車庫
  
二階建て電車の
レプリカ 5号
'68.7 都島車庫
保存車
30号
'68.7 都島車庫
散水車
 25号
'68.7 都島車庫
車庫に並ぶ廃車体
 3000型
'68.7 都島車庫
開通したばかりの
地下鉄2号線 8003号
'67
.6 谷町4丁目
  

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大正11年の回数券
16枚綴り


大正15年の軍人
往復乗車券


昭和10年9月,10月
の通学回数券 
記名式で50枚綴り
創業時の2階つき電車と1区1銭の切符
市電のうつりかわり(その1)
市電のうつりかわり(その2)
乗り換え券(昭和11年9月12日発行)

 

左の横長の4枚はケースに入った記念乗車券 この時の運賃は25円だったので1セット100円

右の縦長の3枚は車掌さんから買い求めたばら売りの記念乗車券 ここに示した3種類の他に大正時代
の切符をデザインしたものが5種類あり、左の4枚セットの他に全部で8種類の記念乗車券が発行された

     

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1960年代の日本経済は高度成長を突っ走っていました。1964年にはアジアで初めてのオリンピックを成功させ、その開催にあわせて道路をはじめ東京都内の整備 が行われるとともに、東京−大阪間には夢の超特急、新幹線が開通しました。次は大阪のインフラ整備の番として、1970年には千里丘陵で東洋初の万国博覧会が開催されることになりました。

その観客輸送には、市営地下鉄1号線(今の御堂筋線)を新大阪から先へ延長して、万博輸送のために設立する北大阪急行電鉄の万博中央駅まで相互乗り入れを行うとともに、阪急千里山線を整備して、新たに建設する市営地下鉄6号線(今の堺筋線)との相互乗り入れを行って対応するものでした。

この他に市営地下鉄では、2号線(谷町線)や5号線(千日前線)の建設や4号線(中央線)の本町から東への延長など、万国博にあわせて整備が急ピッチで進められることになり、かつては水の都とよばれた大阪市内を網の目のようにむすび、 一部は堺市や守口市まで足をのばしていた市電は、6大都市の先頭をきって、万国博の開幕の1年前、1969年3月末までに全廃されることになりました。

大阪市交通局が市電廃止時に発行した記念乗車券のケースの内側には、次のように印刷されています(わかりやすいように西暦年を追加しました)。

大阪市に我が国最初の市営市街電車が走ったのは明治36年(1903年)9月12日で、築港〜花園橋間の約5キロの単線でした。開通当初は2両、料金は4区間に分けられて1区1銭。

その後、順次路線が延長され、市電網の完成をみました。市電の敷設に伴って、道路の拡幅、橋の掛け替え等が行なわれ、だいたい現在の道路網の基盤ができたのであります。

最盛期の昭和18年(1943年)には、営業キロ115キロ車両数833両、1日143万人の乗客を運びましたが、戦災等うよ曲折はありましたものの、市民の足を確保してまいりました。しかし、35年(1960年)ごろから急激な自動車ラッシュにより、年々走れなくなりましたので、都市交通の近代化を図るため、地下鉄の建設を進め、市電の撤去を逐次実施してまいり、44年(1969年)3月末をもって、65年間市民に親しまれ、大阪の発展に尽くした市電は姿を消すことになりました。

ここに市電の廃止を記念して、表記の記念乗車券を発行いたしました。

大阪市電の路線の廃止が始まったのは早く、地下鉄6号線の建設に伴い1960年に港車庫から先の大阪港方面を廃止して、電車代行バスに替えています。

ここに写真のある全廃までの2年間の頃はすでに市電の撤去が進み、地下鉄1号線や3号線と併行する御堂筋や四ツ橋筋、大阪駅前からはすでに撤退しています。1968年の春には都島本通りから京阪東口、淀屋橋を通って港車庫が、秋には今福から梅新を通って春日出車庫方面、福島西通りから三宝車庫方面が廃止になりました。最後に残ったのが今里から上六を通って玉船橋と梅田の阪急東口と守口をむすぶ2つの孤立した路線です。

大阪市電で活躍していた車両をご紹介しましょう。1920年代末に登場した下降窓の大型3扉車の1600型は、大阪市電型とよばれたウイング式のオールコイルバネの乗り心地の良い台車をはいていました。戦中から戦後にかけて製造された2段上昇窓の1650型、1700型、1800型も含め、前と中央と後ろに扉がある3扉車では、それぞれの扉に運転手と2人の車掌が乗務していたそうです。1950年代半ばから、車掌を1名にするため後部の扉を撤去する工事が全車について行われました。

これらの大型車は市電の全廃を待たずに南海大阪軌道線(今の阪堺電軌)と広島電鉄に譲渡が始まり、前者は自社の木造車の機器と組み合わせて121型となって最近まで活躍していました。後者は、広電750型と連接車に改造され宮島線直通の2500型の一部になり、750型は今でも残った数両の活躍が見られます。

1930年代後半に登場した正面が非対称2枚窓の800型は、 これを流線型にした900型とともに、その後の路面電車の標準となった前と中の非対称2扉を初めて採用したそうです。路線の廃止が始まると余剰車は神戸や鹿児島、熊本市電等に譲渡されましたが現存する車両はありません。

1950年代のはじめには、再び非対称2扉の2000型や2100型が製造され、木造車の車体更新車として2500型も現れました。そんな中、アメリカで開発されたPCC車の大阪版として、1953年にはカルダンドライブ電気ブレーキの高性能車3000号が試作され、車内は唯一のセミクロスシートでした。

翌年には、吊りかけ車ながら間接自動制御で、3000号タイプの車体にモデルチェンジした2200型が登場します。1956年から3000型の量産が始まり一気に50両もの高性能車が登場し、大阪市電の最も華やかな時期を迎えます。ゴムをはさんだ弾性車輪の効果もあり、他の型式に比べて3000型は静かに滑るような、とても乗り心地の良い電車でした。活躍した期間は廃止までわずか10年余りで、この優秀な車両が連接車に改造され鹿児島市電に譲渡された2編成を除いて全て廃車になったのは残念なことです。

平行して、木造車の機器を流用して3000型と同様の車体に更新した2600型が続々と登場し、100両を超える最大勢力を誇りますが、1960年頃から一部の路線の撤去が始まり車両の増備もここで打ち止めとなります。

大阪市電でワンマン化された系統は、都島車庫−港車庫間の23系統だけだったように思います。2200型と2600型の一部がワンマンカーに改造され、識別の青帯を巻いていました。この23系統の走る路線は全廃の前年に廃止され、ワンマン改造の2600型は広島電鉄に引き取られて900型となり、同社初のワンマンカーとしてデビューしています。すでに製造から50年以上、木造車から流用した台車等の機器は80年は経過していると思われますが、一部の車両は今でも広島で現役です。

ワンマンカーが先に廃止されたため、最後に残った系統には車掌さんが乗務していました。こうして、1969年の3月31日に廃止の日を迎えます。全廃の4日前の夕刻に大阪を訪れて、阪急東口から都島車庫まで10系統に乗車しましたが、写真にもあるように夕方のラッシュ時には次々と電車がやってきて大勢の乗客でにぎわっていました。

全廃の前年に春日出車庫を訪問したことがあります。車庫内は保存車が保管されていました。その一部、2軸単車の30号や散水車の25号、2階建て電車のレプリカの5号、当時はぼろぼろの状態だった木造の501号などはきれいに整備され、今でも市電保存館で大切にされているそうですが、801号や3000号、貨物電車の12などの貴重な車両は失われてしまったようです。

最後に1枚、市電を廃止に追いやった地下鉄の写真をお目にかけます。2号線(谷町線)の東梅田−谷町四丁目間が開業し、ATCを搭載して正面窓がウインクになったステンレス車が初めて登場た当時のものです。後に御堂筋線に転線して万博会場輸送に活躍し、30系として3000番台に改番しましたが、登場時は8000番台のナンバーの2連でした。

写真に残した大阪市営地下鉄はこの1枚のみです。まだこの頃の1号線(御堂筋線)には、吊りかけモータでリベット止めの車体、連結面間に転落防止柵(最近は一般化しましたが大阪の地下鉄には恐らく戦前からあったと思われます)を設けた600番台以前の旧型車も活躍しており、本町駅以外は高架の4号線(中央線)には6000型の単行運転も見られたのに、地下鉄には興味を示さなかったのが今となっては残念です。

 

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