伯備線 布原信号所

伯備線 布原信号所の列車

伯備線 布原信号所の想い出

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布原信号所にも
駅名票があった
布原信号所 '68.10

信号所に停車する
ディーゼルカー
布原信号所 '68.10

芸備線の列車
キハ23単行
新見-布原 '68.2

D51三重連の
貨物列車
新見-布原 '68.2

D51三重連の
貨物列車
新見-布原 '68.2

     

芸備線の列車
キハ20単行
新見-布原 '68.10

D51三重連の
貨物列車
新見-布原 '68.10

D51三重連の
貨物列車
新見-布原 '68.10

芸備線の列車
キハ20単行
新見-布原 '70.2

D51三重連の
貨物列車
新見-布原 '70.2

         

D51の
単機回送
新見-布原 '68.10

D51牽引の
旅客列車
新見-布原 '68.10

D51重連の
貨物列車
新見-布原 '68.10

D51重連の
貨物列車
新見-布原 '68.10

信号所に到着する
C58の貨物列車
布原信号所 '68.10

         

信号所に到着する
C58牽引の旅客列車
新見-布原 '68.10

バックでトンネルを
出るD51
新見-布原 '68.10

バックで信号所に到
着するD51の貨物
布原信号所 '68.2

キハ58系の
急行列車
新見-布原 '68.10

C58牽引の
旅客列車
新見-布原 '68.10

   

D51重連の
貨物列車
新見-布原 '68.10

D51重連の
貨物列車
新見-布原 '70.2

蒸機牽引の
旅客列車
布原信号所 '68.2

C58後部補機
付きの貨物列車
新見-布原 '68.10

C58単機牽引の
貨物列車
新見-布原 '68.10

   

D51牽引の
旅客列車
新見-布原 '70.2

蒸機牽引の
旅客列車
新見-布原 '68.2

D51重連の
貨物列車
新見-布原 '68.10

C58牽引の
旅客列車
新見-布原 '68.10

キハ10単行の
旅客列車
新見-布原 '68.2

   

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雑誌“鉄道ファン”の号数がまだ2桁だったころ、人気の連載記事に“撮影地ガイド”がありました。地元のファンの方が執筆されている場合が多く、手書きの地図もあり、ネットで居ながらにして情報が入手できる現在と違って、当時としては鉄道写真撮影の貴重な情報源でした。

その撮影地ガイドに、D51が三重連で牽引する貨物列車の撮影地として、伯備線布原信号所が紹介されたのが、1967年頃だったと思います。

当時、蒸気機関車の三重連といえば、今は岩手銀河鉄道となっている東北本線の奥中山や、花輪線の龍が森が知られており、奥中山は1968年10月、昭和43年、ヨン・サン・トーの国鉄ダイヤ白紙改正に向けて電化工事が進んでいました。

複線区間を上下何本もの三重連が行き交う奥中山と違い、伯備線布原信号所のD51三重連は、朝の9時過ぎに発車する、足立の鉱山から石灰を満載したホッパー車を連ねた 上りの貨物列車の1日1本だけ。伯備線は倉敷まで基本的には下り勾配で、1000分の25の登り急勾配が存在するのは、布原信号所から鉄橋を渡り苦ヶ坂トンネルを抜けるまでの短い区間だけです。

牽引定数からみると、この列車D51の重連で牽引が可能で、三重連となるのは早朝の下り貨物列車の補機を務めた機関車を新見機関区に戻す際に、重連の先頭に回送補機として連結するためと聞いていました。そのため、当該下り貨物がウヤとなったり補機が不要となった日は、三重連にはならずに重連で運転され、遠方から訪れたファンをガッカリさせたこともあったのだとか。

初めて布原信号所を訪れたのは、1968年の冬のことです。前日から現地に入らずに、D51三重連の発車に間に合う時間に布原信号所に到着するには、岡山か米子から伯備線の始発列車に乗る必要があります。この時は、大阪発の夜行急行“おき”(ヨン・サン・トーで“だいせん3号”になり、最後はエーデル型のキハ65で2004年まで残ったあの列車です)から米子で岡山行きの始発の気動車に乗り継ぎ、車掌さんにお願いして布原信号所で下車させてもらっています。

三重連までまだ2時間近くありますが、新見−布原−備中神代間は伯備線と芸備線の両方が通るため列車密度は高く、次々とやってくるD51やC58の牽引する列車を撮影していると、あっという間に時間が過ぎます。

信号所から鉄橋を渡り、川の対岸、苦ヶ坂トンネルの横でカメラを構えて待っていると、ホッパー車を連ねたD51三重連が備中神代から下り勾配を軽く流して布原信号所に停車します。1000分の25の登り急勾配に備えて、3本の煙突から立ち上る煙が濃くなったころ、トンネルから気動車1両編成の芸備線三次行きが飛び出してきて、軽いジョイント音を残して信号所に吸い込まれていくとこらからドラマが始まります。

午前9時18分に、谷間に響き渡る汽笛三声。D51三重連は猛然と加速し、地響きを立てて鉄橋を渡り、苦ヶ坂トンネルの中に消えていくまで、一瞬の出来事です。でもその迫力たるや、平坦線を単機で牽いてくる蒸気機関車とは比べものになりません。

午前のまだ早い時間に最大の見所は終わってしまいますが、その後も信号所には重連や後部補機付きのD51やC58が牽引する貨物列車が次々とやってきます。下り列車にはテンダを先頭に逆向きで牽引する機関車や、後部補機が逆向きで付く列車もあり、バラエティーに富んだ列車の迫力ある姿が撮影できます。

旅客列車は単機牽引ですが、ディーゼル機関車はまだ入線しておらず、D51かC58が旧型客車を牽引してきます。また、その間をぬって急行気動車が通過していき、信号所ではタブレットの受け渡しが行われます。

信号所を訪れると、時刻表がもらえました。撮影可能な時間帯の貨物列車も掲載されています。また、ストーブで冷えた身体を温めさせてもらったり、お茶をごちそうになったり、国鉄職員の方々には大変よくしていただきました。

布原信号所の魅力にとりつかれ、その後1968年の秋と1970年の冬にも訪れています。幸い、3回ともD51三重連に出会うことができ、この頃までは、訪れるファンも1日に数名から十数名程度ののんびりした時代でした。

伯備線布原信号所から蒸気機関車が消えたのが、“ひかりは西へ”のキャッチフレーズで山陽新幹線が岡山まで開通した1972年3月のダイヤ改正の直前だったと思います。でも、1970年の冬を最後に布原への足が遠のきました。

SLブームで訪れるファンが急増して地元に迷惑をかけ、それをまたマスコミが報道して煽り、挙げ句の果てには線路脇の土地を借りて入場料を取って一儲けする輩まで現れたのだとか。

伯備線は陰陽連絡のメインルートとして電化され、JRになって布原は駅に昇格して時刻表にも掲載されるようになりました。岡山で新幹線から乗り継いだ特急“やくも”が振り子を使って無人駅の布原を通過するとき、かつてのD51三重連の勇姿がまぶたに浮かびます。

2011/07記

 

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