1960年代の半ば頃まで、大都市には路面電車が走り、繁華街の中心の大きな交差点には平面交差がありました。東京の銀座4丁目、大阪の梅田新道、京都の四条河原町などとならんで、名古屋の中心地である広小路通りと大津通りの交差点、栄にも、市電が次から次へとやってきて、軽やかなジョイント音を残して渡っていきました。名古屋市電のスタイルを確立したのは、1939年から製造された1400型です。当時としてはスマートな張り上げ屋根の3扉車は、市内のどこの路線でも見ることができました。名古屋市電の全廃から27年を経た現在でも、豊橋鉄道市内線の主力として活躍しているのはうれしいことです。
名古屋市電の特長に一つに、2両の車体の間に台車を配した連接車があります。一時期京都市電で連結運転が行われたことがありますが、大都市の路面電車で連接車を所有していたのは名古屋だけです。いくつかの地方都市で、1960年頃から急激な利用者の増加に対応して連接車の採用が始まったのに対し、名古屋では20年も早く、1940年頃から走り始めています。戦前の2600型、3000型に加え、戦後に2700型が加わりました。地下鉄が延びる前は、東山公園へ行くときによく乗りました。
1953年頃から高性能車が導入され、1800型の1次型や1820番台の2次型はゴムを挟んだ弾性車輪をつけた新型台車を装備し、走行音が静かなため“無音電車”といわれていました。この両型式は、台車の外側に大きな丸いドラムブレーキが付き、くるくる回りながら走る姿が面白かったことを記憶しています。1900型からは、駆動方式がそれ以前のつりかけ式からカルダンドライブに変更され、より静かで滑るように走る電車となり、名古屋市電最後の優秀車2000型が生まれます。この両型式は、側面全週にスカートが付き、外から台車が見えなくなりました。これら、無音電車の技術は地下鉄東山線の100型に引き継がれます。
またこの頃、800型という軽量車も生まれています。車体の中央にトロリーバス用のモータを1台吊り下げ、前後の車軸にプロペラ軸をのばす乗り越しカルダンという、鉄道模型のような駆動方式を採用していました。扱いにくかったからでしょう、路線の廃止が始まると、比較的早い時期に廃車となり、一部は魚礁となって海に沈められてしまいました。
地下鉄東山線の延伸や名城線の開通でとともに並行する市電路線の廃止が進み、1974年の全廃を迎えます。市電が最後まで残ったのは東部地区です。この地区を担当する高辻や大久手には連接車も高性能車も配属されませんでした。唯一、終戦直後に1100型木造車の車体更新で生まれた1150型の1161〜1170を、1800型の2次型と同じドラムブレーキ付きの新型台車に交換し、車内もペンキ塗りとスリムラインの蛍光灯(営団銀座線の旧型車が使っていた細い蛍光灯です)照明で明るくなった、セミ無音電車が、東部地区のスターでした。
今では名古屋グランパスのホームグラウンドとなっていますが、市電の瑞穂運動場前から瑞穂競技場方面へ、普段は使われていない分岐線がありました。ここに団体客輸送のため、市内各所から貸切電車がやってくることがありました。電車が次々とポイントを渡って分岐線に入り、東部地区では見られない連接車や無音電車を含む多くの電車が並ぶ姿は壮観でした。
ここでご覧いただく1967年は、栄から星ヶ丘以外の主要路線はまだ残っており、一部の車両がワンマン化されはじめた頃です。東京、大阪をはじめ他の大都市には非対称2扉車が多かったのに対し、名古屋では連接車と前後2扉の1600型以外は3扉車です。ツーマンの時は、最新の2000型以外は前後の扉は手動で、それぞれ運転手さんと車掌さんが開閉し、中央のみ乗車専用の自動扉で、車掌さんが操作していました。ワンマン化の際は、後部扉を閉め切り扱いとしただけで、扉の移設のような車両のスタイルを大きく崩す改造がなされなかったのは幸いでした。
最後に、市電を廃止に追いやった地下鉄の写真を2枚載せておきます。東山線の100型も、名城線の1100型も、黄色い地下鉄は今では写真の中だけになってしまいました。
2001/05記