武蔵野線 |
武蔵野線は、東海道本線の鶴見から総武本線の西船橋まで、関東地方を半円形に半周する路線です。旅客営業を行っているのは、このうち府中本町から西船橋の間だけになります。
現在では、大半の旅客列車は西船橋から京葉線に直通して東京駅まで乗り入れていますが、1973年に武蔵野線が開通したころは、東側は常磐線と接続するために新設した田んぼの真ん中の新松戸駅で、武蔵野線の旅客線の高架橋はぷっつりと切れ、運転もラッシュ時には15間隔だったものの、昼間は40分に1本と実にのんびりした田舎の電車でした。
その理由は、武蔵野線が都心を通る山の手貨物線のバイパスとして計画され、貨物列車を都心に乗り入れさせさせないことによる東京の混雑緩和を目的に建設されたことによります。旅客線が行き止まりになっていた新松戸でも、貨物線ははじめから常磐線の上下両方向につながって直通運転が行われ、開通から3年後には府中本町から鶴見操車場までの貨物線が延長開業します。
現在の新三郷駅は、武蔵野線の開通時には設置されておらず、ここには東洋一といわれた武蔵野操車場があり、武蔵野線の上下線の間にはさまれた広大な敷地に何本もの線路が敷かれ、その上を貨物列車に仕立てられる多くの雑多な貨車が行き交っていました。
旅客列車は中央線の101系中古車が、6両編成で沿線住民のための貨物線のオマケのサービスにあたり、昼間は40分間隔でも、輸送力をもてあましていました。やがて、沿線の田んぼや畑、雑木林は宅地や団地に姿を変え、5年後には小金線として建設されていた新松戸−西船橋間が開通して総武本線や営団東西線と接続します。
一方では、国鉄貨物の合理化により、貨物列車が拠点間輸送に転換すると、最新設備の武蔵野操車場は宝の持ち腐れとなり、武蔵野線の開通から13年、鶴見までの貨物線の開通からわずか10年で廃止となり、武蔵野線は大きく性格を変えていくことになります。
2005/11記