松尾鉱山鉄道

松尾鉱山鉄道の車両

松尾鉱山鉄道の想い出

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松尾鉱山鉄道
 もと阪和電鉄モヨ100型
'69.8 大更駅

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東北本線の好摩と奥羽本線の大館を結ぶ花輪線。好摩から2つ目の大更で下車すると、構内には架線が張ってありました。大更から東八幡平を結ぶ鉄道、松尾鉱山鉄道があったのです。

1914年操業を開始した八幡平山麓の松尾鉱山は、日本最大の硫黄鉱山として、硫黄や硫化鉄鉱を産出し、松尾鉱山鉄道を使って国鉄花輪線の大更経由で搬出していましたが、石油精製時の副産物として回収硫黄が主流となると経営が成り立たなくなり、1969年に倒産、1970年には閉山してしまったそうです。

今でも、八幡平の松尾鉱山の跡地には社宅のアパート群の廃墟が立ち並んでいるそうですが、松尾鉱山鉄道は当時1万人が居住した社宅の旅客輸送も兼ねていました。旅客と貨物を分離する目的で、1965年頃、国鉄で廃車になったクモハ20型の052と054の払い下げを受けて、電車の運転を開始しました。クモハ20とは、昭和の初期に阪和電鉄(今のJR西日本阪和線)が天王寺と和歌山間を45分、表定速度80km/h以上で結んだ超特急に使われたモヨ100型です。その記録は特急“こだま”の登場まで敗られなかったそうです。国鉄時代に3扉ロングシート化され、運転台窓はHゴム、パンタグラフはPS13と国電の標準品に交換され、阪和電鉄の面影は失われたものの、重量感あふれる車体は健在でした。

松尾鉱山鉄道の廃線後、ED型電気機関車の一部は秩父鉄道に移籍し、現役で活躍中だそうです。2両の電車は弘南鉄道に引き取られ、弘南線で使用されましたが、重量オーバーかモータの出力が大きすぎたためか、この写真の15年後に再会したときにはクハ化されて、東急から来た3600型に挟まれて走っていました。

写真は、大更駅を発車したこの1枚だけです。この時点で、1日11往復の電車が運転されていました。でも、残念ながら松尾鉱山鉄道には乗車していません。

2000/11記

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