京都市電

京都市電の車両

京都市電の記念券

京都市電の想い出

最初のページに戻る



写真をクリックすると拡大写真が表示されます。

伏見線肥後町
600型
'67.12

白梅町
700型
'69.2
烏丸丸太町
700型
'67.10
高倉陸橋
800型
'67.12
竹田街道
800型
'67.12
   
伏見線
800型
'67.12
伏見線
900型
'67.12
伏見線
800型
'67.12
棒鼻
800型
'67.12

天王町
1600型
'68.3

  

錦林車庫
1600型
'68.3

錦林車庫
1600型
'68.3

堀川丸太町
800型
'67.8
烏丸通
2600型
'68.7
北大路橋
1800型
'78.9
  
四条堺町
800型
'72.1
四条堺町
1600型
'72.1
四条堺町
1800型
'72.1
烏丸七条
2600型
'68.7
京都駅
900型
'67.10
  
京都駅
1800型
'78.8
京都駅
1900型
'78.8
京都駅
1800型
'78.8
七条京阪
1800型
'78.2
東山七条
1900型
'78.2
  
東山七条
1800型
'78.2
東山七条
1800型
'78.2
東山七条
1800型1900型
'78.2
東山七条
1800型
'78.2
祇園
1900型
'78.9
  
祇園
1800型
'78.9
祇園
1800型
'78.8
九条大宮
1800型
'78.9
九条大宮
1900型
'78.8
白梅町
1900型
'78.8
 
  
衣笠校前
1900型
'78.8
衣笠校前
1900型
'78.8
金閣寺前
1900型
'78.8
車内
1900型
'78.8
車内
1900型
'78.8
   

このページのはじめに戻る


日本最初の電車路線
伏見・稲荷線廃止記念乗車券
昭和45年3月31日

この時の運賃は25円でした

1972年1月22日の四条通の市電廃止時に四条繁栄会が配布したカード

 

このページのはじめに戻る




日本で一番はじめに電車が開通したのが京都市。それを引き継いだ京都市電は都電荒川線を除く、大都市の公営の市電のなかで最後まで残った ものの、1978年の秋に廃止されてしまいました。

京都市電の全盛期といえば、1960年前後でしょうか。最後の路線延長が今出川通りの西、白梅町と北野紙屋川町の間、嵐電の北野線を譲り受けるかたちで開通したのが1958年頃です。この頃の車両は、 大型車500型と1000型、小型車600型に中型車の800型と900型、それにスマートな700型の増備が続いていました。

市電の系統は、一部欠番を含む1から22まであり、担当する車庫別に系統番号が色分けされていました。道路が碁盤の目のように配置されている京都市街の特長を生かし、循環系統が多くありました。

メインストリートの四条通を走る1番をはじめ赤が壬生車庫、京都駅から市内を一周して京都駅に戻る4番や6番など緑が烏丸車庫、九条通りや伏見線など南部を中心とした青が九条車庫、今出川通りや丸太町通りを中心とした錦林車庫は白が基本で、22番の今出川西大路九条系統などは丸太町系統と区別するために一部例外的に水色を採用していました。北野車庫が担当した10系統北野線のN電も白でした。

最後の路線延長から3年後、1961年にはチンチン電車で親しまれた狭軌の北野線が廃止されました。交通局の経営が赤字になったからだと思います。 代替の市バス50系統は初のワンマンバスとなり、それ以後交通局では、様々な経営合理化の努力がなされました。

1962年頃だったでしょうか、朝のラッシュ時にスピードアップをはかるため、停車する停留所を全停留所の2/3程度にしぼった急行運転が始まりました。

1964年には、2000型新造車6両に、小型車600型の中央ドア部分の車体を延長してHL制御化した2600型18両を加えて、ラッシュ時には2両連結運転、閑散時には1両でワンマン運転が始まりました。 乗客に目立つように、ライトブルーとベージュに正面だけ赤帯の新塗色で登場しましたが、評判が悪かったからでしょう、程なく下半は在来車と同じ緑になり、赤帯が全週に巻かれ正面だけは2段になりました。

ラッシュ時の連結運転は、1両目には運転手と車掌が、2両目には車掌だけが乗務し、前扉から乗車して中扉から下車する方式だったと思います。2000型と2600型は烏丸車庫に所属し、輸送力が必要な烏丸線を中心に運用されました。正面の方向幕は2段になり、上段には“連結車”または“ワンマン”表示を、下段には行き先を表示しました。

財政面からか、2000型と2600型を大量に増備して全線に走らせる当初の方針が変更になり、1967年頃から戦時中の粗製乱造の2次型を除いて、2600型に改造されなかった600型を簡易ワンマン改造した1600型が登場しました。 改造当初はツーマンのまま使用され、1968年の3月頃、一斉に赤帯を巻いてワンマン化されました。

引き続き、800型と900型 をワンマン化して1800型と1900型にする工事が進められ、こちらは車体が長かったためか後部扉が中央部に移設されました。900型の間接制御車と900型と同じ顔をした800型の3次型はワンマン化の対象からはずれ、800型の間接制御車2次型は一部が直接制御化の上で1800型に加わりました。

市電の仲間にトロリーバスがありました。地下に阪急京都線が通るため、国鉄山陰本線と七条通のようなアンダークロスができずに平面交差となる、四条通の大宮と西大路(西院)間に開通し、後に市電の代替で梅津へ、さらに松尾橋まで延長されました。

トロリーバスには中央扉の100型と前後扉の200型および300型がありました。いずれもワンマン化されることもなく、市電より一足先の1969年秋に廃止になりました。

京都市電の本格的な廃止が始まったのが1970年です。京都駅から高倉陸橋で国鉄線をオーバークロスし、京阪沿線の中書島と稲荷をむすんでいた郊外電車の雰囲気を持つ伏見線がなくなり、最古参の大型車500型が消えました。

この頃、他都市には見られない市民運動として、京都の街にふさわしい乗り物、市電を残そうという“京都の市電を守る会”が結成されたのではなかったでしょうか。

1972年の四条、千本、大宮線の廃止では、京都の中心を走るドル箱の四条通を失ったことが、経営的には致命傷になったと思います。大型車の1000型とともに、スマートな700型のうち新しい間接制御車が廃車となりましたが、中には車令が10年に満たないのもありました。

700型は軽量車体と4枚折り戸の前後扉がワンマン化には向かなかったのでしょう。直接制御車も改造を受けることなくきれいなスタイルのまま、他都市にも譲渡されずに1974年の烏丸線の廃止の後に他のツーマン車とともに廃車となり、ここにワンマン化が完成しました。

あとはもう、坂道を転げ落ちるように1976年の今出川、丸太町線の廃止で1600型が消え、1977年の河原町線の廃止で2600型が廃車、2000型が松山に去りました。外周と東山七条から京都駅まで最後に残った市電も全廃の日1978年9月30日を迎えます。

その後、阪堺電軌に引き取られた1800型は引退はしたものの、我孫子道の車庫で保存されるとともに、1両は800型当時の前後扉に戻されて米国で現役で活躍、1900型の大半は今でも広島電鉄の主力車として活躍中であるのは嬉しいことです。

京都市電の全廃から2年後、広島と長崎に新しい路面電車“軽快電車”登場します。故美濃部都知事の英断により都電荒川線の存続が決まり、軽快電車プロジェクトが進行していたその時に、“京都の市電を守る会”の活動もむなしく京都市が市電を全廃したことが正しかったのか、いずれ歴史が証明してくれることでしょう。

2002/8記
2013/5追加

このページのはじめに戻る


最初のページに戻る

inserted by FC2 system