呉 線 |
小屋浦駅の入場券
1960年代の末期、三原から海岸まわりで海田市に至る呉線には、糸崎機関区に所属する本州最後の大型蒸気機関車、C62とC59が活躍していました。広島への通勤路線の他に、山陽本線のバイパス的な位置づけもされていた呉線には、優等列車も多く設定されていました。定期急行列車だけでも、東京から広島行き夜行寝台急行列車“安芸”と新大阪・京都から下関・広島行き夜行急行列車“音戸”が2往復、それに岡山から岩国・広島間のディーゼル急行“吉備”が2往復と呉始発の長崎行きディーゼル急行“出島”がありました。急行“安芸”と“音戸1号”及び“音戸2号”の牽引機は、もちろんC62またはC59です。
当時C62は、函館本線の急行“ニセコ”牽引機として、スワローエンジェルと呼ばれたC622号機を始めとする4両が、小樽築港機関区にいましたが、C59は糸崎機関区のC59161、C59162、C59164の3両が残るのみで、C62以上に注目を集めていました。
糸崎のC62は、日本の蒸気機関車最高速度保持機のC6217を始めとする数年前まで山陽本線で活躍した若い番号と、1967年の常磐線の電化で平機関区から移ってきた、最後のSL特急“ゆうづる”牽引機のC6223やC6248などの軸重軽減改造機がいて、バラエティーに富んでいました。
呉線の普通列車は、大半がディーゼルカーで、全線を通してSLが牽引する普通列車はわずかに2往復。C62やC59の主な任務はこれと荷物列車及び朝夕の通勤列車で、貨物列車はD51が牽引していました。
呉線には、1968年の冬、同年の秋と、電化が迫った1970年の9月末の3回訪れています。68年の冬は、伯備線の布原の帰りに新見から芸備線の最終普通列車に乗り、終点の三次で木次線からくる夜行の急行“ちどり”に乗り継いで、早朝の広島駅に降り立ち、呉線の始発で坂に向かっています。
68年の秋には、直前のヨン・サン・トーのダイヤ改正まで急行“ななうら”を名乗っていた京都始発の夜行急行“音戸2号”で呉に着き、広からやってくるD51の牽く下り普通列車に乗り換えて小屋浦に降り立ち、線路沿いを坂に向かいました。3度目は、まだ中国縦貫道や山陽道はできていませんが、クルマを使って広島 まで来ています。
早朝の広駅には始発の広島行き、3本の蒸機列車がならび、竹原始発と糸崎始発を含めて下り5本、上り1本の蒸機列車を瀬戸内の海岸沿いを走る小屋浦−坂間(この間にまだ中間駅はありません)で待ち受けました。
中にはD51が牽引してくる列車もあってがっかり。今から思うと贅沢な時代でした。でも、当時のフイルム感度では、季節や天候によっては高速で走る大型蒸気機関車の早朝の撮影には苦しいこともありました。
広島まで朝の通勤列車を牽引してきた機関車の多くは、広島運転所の側線で夕方までを過ごします。でも、夕方の広行き通勤列車は、バック運転のため絵になりませんでした。
呉線の大型蒸気機関車も、1970年の電化により最期を迎えます。東京始発の呉線経由の寝台急行“安芸”は、広島到着が12時過ぎ。広島発東京行きが15時と時間帯がよく、引退が迫るとファンの人気を集め、ブルートレインの“ゆうづる”以来途絶えていたヘッドマーク付きで運転されるようになります。ヘッドマークには、“あき”の文字とともに宮島と厳島神社の鳥居が描かれていました。
電化の完成に合わせるかのように、急行“安芸”は山陽本線経由下関行きの20系ブルートレイン“あさかぜ”に格上げされます。呉線沿線と東京をむすぶ最終のSL急行“安芸”の牽引機にはC59161が選ばれました。そして、待ち受けるファンの前にピカピカに磨かれ“ごくろうさん蒸気機関車”の飾り付けをして日の丸をなびかせてやってきました。最後の晴れ姿を飾ってやろうという機関区の方々の思い入れでしょうが、わざわざ遠くから撮影に来て、この姿を見たときはがっくり。
これで、呉線のC62とC59も終わりと思われたのですが、何とC6215号機とC6216号機が北海道に渡り、軸重軽減と耐寒改造を受けて急行“ニセコ”牽引機の一員に加わることになりました。でも、それも1971年9月半ばまでの1年足らず。C59164号機の梅小路をはじめ、C6217は名古屋のリニア・鉄道館、C6215の動輪は東京駅丸の内地下コンコース「動輪の広場」に保存されるなど、一部の機関車には今でも出会うことができます。
2000/10記
2011/09改
2003年12月20日から2004年2月29日まで、呉市海事博物館(呉市海事歴史科学館)で開催された企画展示、 呉線開業100周年記念「時代を見つめた車窓」展に、このページの中から数枚の写真を提供させていただきました。