東海道本線 神足−山崎 |
東海道本線京都−大阪間の撮影の名所といえば、今も昔も大山崎でしょう。ここの写真のある1960年代後半は、東海道本線の京都−西明石間が複々です。京都からクモハ73やクモハ51、クハ68などのチョコレート色の4扉車と3扉車が連なった、西明石行きの各駅停車に乗りると、内側の電車線を走ります。向日町と神足(こうたり、現在の長岡京)の間に向日町運転所(現在の京都総合運転所)があります。
ここを通るとき、車窓には当時の国鉄を代表するこだま型181系特急電車や交直両用の481系、キハ82系特急気動車やブルートレイン20系客車 、153系や471系の急行電車などが並び、いつも飽きずに眺めていました。
神足を過ぎて名神高速道路の下をくぐり抜けると、右から阪急京都線が寄り添ってきて併走し、東海道本線が山崎駅に向かって大きく右へカーブするところで、阪急は下をくぐり抜けていきます。
山崎を出るとサントリーの前を大きく左にカーブし、阪急と新幹線が併走する高架線を遠くに見ながら、113系の快速と接続する高槻に向かいます。
この山崎駅の両側にあるカーブは、昔も今も撮影の名所ですが、そこを通る列車が最も華やかだったのは、1964年の東海道新幹線開業から、1972年の山陽新幹線岡山開業までの7年半の間で しょう。
新幹線に移行して廃止された東海道本線の特急“こだま”等の車両を活用して、新大阪/大阪から広島、博多、四国連絡の宇野方面への特急が増発されました。下り側の先頭車、パーラーカーのクロ181は、大半の車両が個室を除く展望室を2等車に格下げされてクロハ181となったものの、時刻表には展望車を表す“展”のマークが付いていました。
九州直通は、1965年に北陸本線と共通運用の交直両用の481系に置き換えられます。1967年には、最初の寝台電車581系が夜行の“月光”、昼間の“みどり”として登場します。これらの山陽本線の列車は向日町運転所を基地としていたため、始発の大阪/新大阪と向日町運転所の間は回送列車として走ります。
また、東海道本線、東京−大阪間の“なにわ”や“いこま”等の一部の急行は1968年のダイヤ改正まで運行され、寝台車を連結した夜行列車も急行“瀬戸”や“安芸”、“銀河”等はその後も健在でした。このように、山崎は国鉄で最も華やかな特急街道の中心に位置していました。
東海道新幹線開業から山陽新幹線岡山開業までの7年半の中間、1968年にヨン・サン・トーのダイヤ白紙改正が行われています。マルスシステムによる指定席発行の本格的な採用。東北本線の全線電化完成や120km/s運転、583系寝台電車大増発などの華やかなダイヤ改正の裏で、列車名の統合が行われ、特急や急行の親しまれてきた列車名が消えていきました。
当時のマルスシステムは、発券時に切符の上に直接列車名を印字するキーを差し込む構造だったので、煩雑さを避けるために用意するキーの数を減らす目的で列車名を統合したのかと推測しています。
また、それまで本数の多い新幹線と、もと準急で運賃値上げで急行の仲間入りをした列車は、例えば“ひかり1号”、“東海1号”等と呼ばれ、特急や本来の急行は“第1しおじ”、“第2しおじ”等と名付けられていました。ヨン・サン・トーで“しおじ1号”になったときは、特急も準急並みに落ちぶれたように感じたものです。
ここに写真のある“ゆうなぎ”は“うずしお”に、“加賀”は“ゆのくに”に統合され、新幹線に移行した“なにわ”等とともに消えていきました。
もう一つ、京都−西明石間の快速電車から湘南型の80系が撤退したのがヨン・サン・トーだったと思います。ダイヤ改正前の転属でしょうか、いつもは内側の電車線を走る80系が、荷物電車を引き連れて列車線を駆け抜けていきました。
荷物電車といえば、東海道緩行線の各駅停車の最後尾にクモニ13がぶら下がっていて、荷物輸送が行われていたようです。この頃の東海、緩行線は、まだ全部ブドウ色の電車で、京浜東北線と同じスカイブルーの103系が入るのは、大阪万博の時です。
2010/7 記