東海道本線 神足−山崎

東海道本線 神足−山崎の列車

東海道本線 神足−山崎の想い出

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181系の
特急“しおじ”
'68.9

181系の
特急“うずしお”
'68.9

181系の特急
“ゆうなぎ” の
展望車 '68.9

181系の
特急“ゆうなぎ”
'68.9

153系の
急行“なにわ”
'68.9

   

153系の
急行“なにわ”
'68.9

471系の
急行“立山”
'68.9

581系の
特急“みどり”
'68.9

キハ82系の
特急“白鳥”
'68.9

471系の
急行“つくし”
'68.9

  

471系の
急行“加賀”
'68.9

キハ58系の
急行“ちくま”
'68.9

EF58の牽く
急行“日本海”
'68.9

EF58の牽く
急行“銀河”
'68.9

113系の
臨時快速“びわこ”
'68.9

  

113系の
臨時快速“びわこ”
'68.9

80系の
回送列車
'68.9

荷物電車
クモニ83
'68.9

73系の
東海道緩行
'68.9

荷物電車
クモニ13
'68.9

  

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東海道本線京都−大阪間の撮影の名所といえば、今も昔も大山崎でしょう。ここの写真のある1960年代後半は、東海道本線の京都−西明石間が複々です。

京都からクモハ73やクモハ51、クハ68などのチョコレート色の4扉車と3扉車が連なった、西明石行きの各駅停車に乗りると、内側の電車線を走ります。向日町と神足(こうたり、現在の長岡京)の間に向日町運転所(現在の京都総合運転所)があります。

ここを通るとき、車窓には当時の国鉄を代表するこだま型181系特急電車や交直両用の481系、キハ82系特急気動車やブルートレイン20系客車 、153系や471系の急行電車などが並び、いつも飽きずに眺めていました。

神足を過ぎて名神高速道路の下をくぐり抜けると、右から阪急京都線が寄り添ってきて併走し、東海道本線が山崎駅に向かって大きく右へカーブするところで、阪急は下をくぐり抜けていきます。

山崎を出るとサントリーの前を大きく左にカーブし、阪急と新幹線が併走する高架線を遠くに見ながら、113系の快速と接続する高槻に向かいます。

この山崎駅の両側にあるカーブは、昔も今も撮影の名所ですが、そこを通る列車が最も華やかだったのは、1964年の東海道新幹線開業から、1972年の山陽新幹線岡山開業までの7年半の間で しょう。

新幹線に移行して廃止された東海道本線の特急“こだま”等の車両を活用して、新大阪/大阪から広島、博多、四国連絡の宇野方面への特急が増発されました。下り側の先頭車、パーラーカーのクロ181は、大半の車両が個室を除く展望室を2等車に格下げされてクロハ181となったものの、時刻表には展望車を表す“展”のマークが付いていました。

九州直通は、1965年に北陸本線と共通運用の交直両用の481系に置き換えられます。1967年には、最初の寝台電車581系が夜行の“月光”、昼間の“みどり”として登場します。これらの山陽本線の列車は向日町運転所を基地としていたため、始発の大阪/新大阪と向日町運転所の間は回送列車として走ります。

また、東海道本線、東京−大阪間の“なにわ”や“いこま”等の一部の急行は1968年のダイヤ改正まで運行され、寝台車を連結した夜行列車も急行“瀬戸”や“安芸”、“銀河”等はその後も健在でした。このように、山崎は国鉄で最も華やかな特急街道の中心に位置していました。

東海道新幹線開業から山陽新幹線岡山開業までの7年半の中間、1968年にヨン・サン・トーのダイヤ白紙改正が行われています。マルスシステムによる指定席発行の本格的な採用。東北本線の全線電化完成や120km/s運転、583系寝台電車大増発などの華やかなダイヤ改正の裏で、列車名の統合が行われ、特急や急行の親しまれてきた列車名が消えていきました。

当時のマルスシステムは、発券時に切符の上に直接列車名を印字するキーを差し込む構造だったので、煩雑さを避けるために用意するキーの数を減らす目的で列車名を統合したのかと推測しています。

また、それまで本数の多い新幹線と、もと準急で運賃値上げで急行の仲間入りをした列車は、例えば“ひかり1号”、“東海1号”等と呼ばれ、特急や本来の急行は“第1しおじ”、“第2しおじ”等と名付けられていました。ヨン・サン・トーで“しおじ1号”になったときは、特急も準急並みに落ちぶれたように感じたものです。

ここに写真のある“ゆうなぎ”は“うずしお”に、“加賀”は“ゆのくに”に統合され、新幹線に移行した“なにわ”等とともに消えていきました。

もう一つ、京都−西明石間の快速電車から湘南型の80系が撤退したのがヨン・サン・トーだったと思います。ダイヤ改正前の転属でしょうか、いつもは内側の電車線を走る80系が、荷物電車を引き連れて列車線を駆け抜けていきました。

荷物電車といえば、東海道緩行線の各駅停車の最後尾にクモニ13がぶら下がっていて、荷物輸送が行われていたようです。この頃の東海、緩行線は、まだ全部ブドウ色の電車で、京浜東北線と同じスカイブルーの103系が入るのは、大阪万博の時です。

2010/7 記

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