加悦鉄道 |
加悦鉄道は、国鉄宮津線の丹後山田(現在の北近畿タンゴ鉄道の野田川駅)から丹後ちりめんの里、加悦まで5.7kmをむすぶ鉄道でした。1925年に開通し、その後1940年に大江山にニッケル鉱山が発見されると、加悦から2.6km専用線を延長し、1942年には丹後山田から精錬所までの専用線も開通しています。このうち、旅客営業を行っていたのは丹後山田−加悦間のみで、鉄道線を列車が、並行する道路を路線バスが運転され、運賃も所要時間も同じ、交通公社の時刻表にはまとめて一緒に掲載されていました。
初めて加悦鉄道を訪れたのは、1969年の春のことです。天橋立に一泊し、翌日、国鉄宮津線の普通列車から丹後山田に下車すると、ホームの向こうに前後に荷物台を持つディーゼルカーが1両で乗り換え客を待っていました。今はバス会社になっている、山口県の船木鉄道が廃線になった時に転入してきたキハ51です。
ガタゴト揺られて17分、終点の加悦に到着すると構内の側線に並べられた蒸気機関車や古典客車が目に入ります。加悦SL広場が開設されたのが翌1970年のことだそうですから、この時は駅構内の留置車両群で、事務所で許可をもらって見学です。
お目当ての、日本最古の蒸気機関車の1両、2号機は、機関庫の中でロッドをはずされ修復中のようでした。1873年イギリスのロバート・スティーブンソン社製で、官設鉄道の京阪神間開業時に使用され、現在の木次線の前身である簸上鉄道が払い下げを受け同社の2号となっていたものを、加悦鉄道の開通に合わせて譲り受けたといわれています。
戸外には長野電鉄の前身、河東鉄道から譲り受けた4号と、2号機と同じ簸上鉄道から来た1261号機関車が休んでいました。貨物列車の牽引機は、この訪問の2年ほど前に入線したディーゼル機関車に置き換えられ、これらの蒸気機関車にはもう火は入らないようでした。
森ブタと呼ばれる森製作所製の小さなディーゼル機関車DB201号機が、もと東急池上線の電車サハ3104を引き連れています。何とも不釣り合いな編成ですが、ディーゼルカーより収容力は大きそうです。
明治生まれでしょう、もう使われなくなった2軸の古典客車の編成も並んでいます。両端には車端部にハンドブレーキを有する車両が連結されています。かつては、蒸気機関車に牽かれた編成の最後尾で、車掌さんが手回しのブレーキをかけていたのでしょうか。
大正生まれでしょうか、1両だけダブルルーフのボギー客車も、廃車と書かれた貨車と連結して留置されています。東急の電車に取って代わられたのでしょうか。
旅客車の主力は、加悦鉄道オリジナルのキハ101と船木鉄道からきたキハ51の2両のディーゼルカーです。小さいキハ101は、片ボギーという珍しい軸配置です。
丹後山田へ戻る列車は、嬉しいことにこのキハ101でした。タン、タタ、タン、タタという3拍子のジョイント音の列車に乗ったのは、加悦鉄道のキハ101が最初で最後の経験です。
再び加悦を訪れたのは、最初の訪問から20年後の、1989年の冬のことです。加悦鉄道は、他のいくつかの零細私鉄と同様に、1984年の国鉄貨物合理化で自社線内の貨物列車の運行ができなくなり、翌1985年に廃線になっていました。
国鉄からJR西日本に転換した宮津線の丹後山田駅におりると、加悦行きの加悦興産のバスが接続しています。
廃線から3年余りが経過していましたが、旧加悦駅はそのままの佇まいで構内はSL広場となり、入場券を買って見学することになっています。 懐かしい2号蒸気機関車は、きれいな姿に復元され、古典客車を引き連れて展示されています。1261号機関車もいます。ディーゼルカーキハ101とキハ51も手をつないで休んでいます。
新たに、国鉄からC57やC58、ラッセル車、車掌車などの入線し、なかでもC58は切りとりデフの北海道末期型のスタイルです。最後の旅客輸送に活躍した、オハ62型客車改造のディーゼルカーキハ08と、かつての国鉄ローカル線の主力キハ10も手をつないで留置されています。
この時は、廃線から3年余りが経過して、車両によっては痛みが激しいものもあり、行く末を案じましたが、その後加悦SL広場は加悦駅舎とともに鉱山の跡地に移り、車両はきれいに整備され、キハ101等一部は稼働状態にまで復元されているそうです。
2008/08記