常磐線 |
常磐線は東北本線の日暮里から分かれ、太平洋沿いに水戸、日立、いわきを経由して岩沼で再び東北本線に合流する路線です。東京近郊の通勤路線であり、東京と水戸など茨城県内の主要都市を結んでいます。1970年代の前半に、営団地下鉄千代田線に接続する綾瀬−我孫子間が複々線となって、快速線と緩行線に分離されました。千代田線から乗り入れてくるチョッパ制御の6000型を初めて見たとき、従来の電車とは異なる斬新な前面のデザインに驚いたものです。
このころ、東京の通勤路線では常磐線が一番空いているといわれましたが、沿線人口の増加とともに103系の快速が15両編成になり、並行してもう一本、常磐新線と呼ばれた“つくばエクスプレス”が開通するまでになっています。
常磐線には、1982年の東北新幹線の開業の頃まで、上野駅に出入りする最後の旧型客車列車が残っていました。'70年代の半ば頃まで、急行“八甲田”や“十和田”、“津軽”等に使用されていたであろうスハ43系客車が、尾久から機関車の推進運転で、ゆっくりとホームに入線してきます。先頭になる客車の連結面には、前方を監視して最後部の機関士と連絡を取る国鉄職員が乗車しています。
平(今のいわき)行き普通列車は、先頭に交直両用電気機関車の標準機EF80が付いた長い編成で、普通電車や快速電車と平行ダイヤを保つためでしょうか、あるいは汽車の時代の名残か、上野を出ると取手までの途中停車駅は日暮里、松戸と我孫子だけだったように思います。
常磐線は、東北新幹線の開業まで、東京と東北・北海道を結ぶ東北本線のバイパスとしても、重要な路線でした。東北地方初の特急“はつかり”は、1958年の登場からディーゼル化後も10年間、1968年秋のヨン・サン・トーのダイヤ改正で電車化されるまで、勾配の少ない常磐線経由で運転されていました。
盛岡から先の電化が完成して、特急“はつかり”が東北本線に移ると、表街道の東北本線に対して、常磐線は裏街道のイメージとなりますが、東北本線の青森行き急行“八甲田”に対して常磐線には急行“十和田”が、寝台特急“はくつる”に対して“ゆうづる”が運転されていました。
昼間の東北本線の特急“はつかり”に対して、1972年に常磐線に登場したのが、特急“みちのく”です。運用効率の向上を目指して登場した583系寝台電車は、昼間は座席車として運転され、一躍長距離特急の主役に躍り出ます。寝台特急“はくつる”や“ゆうづる”には、機関車牽引の客車列車ブルートレインとともに、寝台電車が活躍し、特急“みちのく”も“ゆうづる”とペアの583系で運転されます。
初めて583系電車に乗ったのは1974年の夏のことです。飛行機が一般的でなかった1970年代前半までは、夏休み期間に東京から連絡船を介して北海道方面に向かう列車の寝台券や指定券の入手は困難を極めました。国鉄の看板である特急列車に自由席などありません。指定券の売り出しは、乗車の1週間前だったと思います。
上野から札幌まで、同行する5〜6名分の寝台や指定席を確保するため、発売日の朝早くからみどりの窓口に並びましたが、“はくつる”や“ゆうづる”の寝台券は即座に売り切れ。“はつかり”も確保できず、何とか裏街道の“みちのく”の特急券を入手しました。
“みちのく”から青森で接続する連絡船は深夜便です。早朝の函館で接続する札幌方面の特急は、室蘭本線経由釧路行きの“おおぞら”と函館本線山線経由旭川行きの“北海”だったと思いますが、いずれも入手できずに、数時間待ちで次の“北斗1号”の特急券を何とか手にしました。
当時の上野駅には、まだ大跨線橋はなく、ホームは20番線まであったようです。その一番端の20番線から発車した特急“みちのく”は北に向かいます。583系は寝台と兼用ですから、特急といえど4人がけのボックス席で、FRPの箱を側壁に埋め込んだ窓側の肘掛けなど、181系電車やキハ82と比べると見劣りし、効率優先の設計と感じました。
函館駅のホームでは、連絡船の深夜便に接続し、特急“おおぞら”と“北海”を追って発車する山線経由の気動車急行“ニセコ1号”に空席を見つけ、苦労してやっと確保した次の“北斗”の指定席特急券を精算して、ニセコの自由席で札幌に向かいました。
その後は、583系の寝台特急“はくつる”で北海道に渡ったこともありますが、モーター音がうるさく、高速で走るためよく揺れて寝られず、次の日がつらかった記憶から、以後は昼夜とも583系を避けるようになりました。
1982年の東北・上越新幹線開業により、在来線の特急や急行の整理が行われ、特急“みちのく”は登場から10年で廃止になりました。この頃には、北海道へは一番近い函館でも飛行機を使うようになり、東北新幹線から乗り継いで北海道を目指したことはありません。
2005/11記