北丹鉄道

北丹鉄道の車両

北丹鉄道の乗車券

北丹鉄道の想い出

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発車待ちの
キハ101
'69.4 福知山

昼間は留置中の
ハニ11
'67.10 福知山
正面5枚窓の
ハニ11
'69.4 福知山
福知山を発車した
キハ102
'67.10 福知山
レンゲ畑をいく
キハ101
'69.4 福知山
   
北丹鉄道本社と
キハ101
'67.10 福知山西
車庫で休む
 森ブタDC1
'67.10 福知山西
2両の機関車
DC1とDB2
'68.10 福知山西

車庫で待機する
DB2とハ12
'67.10 福知山西

もと一畑電鉄の
ハ12
'68.10 福知山西

  
ロングシートの
ハ12の車内
'67.10 福知山西
車庫内の
キハ101
'68.10 福知山西
由良川の堤防上の
キハ101
67.10 福知山西-下川
由良川の河川敷を
いくキハ102
68.10 福知山西-下川
鉄橋を渡る
キハ102
68.10 福知山西-下川
  
クロスシートの車内
キハ102
'68.10
ワ1型貨車

'68.10 河守
発車を待つ
キハ102
'68.10 河守
朝の通勤列車
キハ102+ハニ11
'68.10 蓼原-河守
気動車に牽かれる
客車ハニ11
'68.10 蓼原-河守
  
閑散時の列車
DB2+ハ12
'67.10 河守
発車を待つ
DB2+ハ12
'67.10 河守
北丹鉄道の北端
ここで行き止まり
'67.10 河守
踏切標識兼
バス停
'67.10 下川
北丹鉄道の
観光バス
'67.10 福知山西
   

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北丹鉄道の福知山から福知山西までの乗車券
当時国鉄の最低運賃は20円だったが、北丹鉄道には10円で乗れた
終点河守までは70円だったが国鉄なら50円の距離

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山陰本線と福知山線が交わり、北近畿タンゴ鉄道宮福線が分岐する京都府北部の交通の要所、福知山。駅の高架工事が完成して、すっかり様子が変わった福知山で、JRから宮福線に乗り入れた天橋立行きの特急電車が宮津までに停車する唯一の途中駅が大江です。

1923年から1971まで半世紀近くにわたり、国鉄に接続する福知山から、大江駅のすぐ近傍にあった河守(こうもり)駅まで、12.4kmの距離を北丹(ほくたん)鉄道の小さな列車が運行されていました。

今では特急電車が12分、普通気動車でも18分で走る距離を、北丹鉄道は45分を要していました。表定速度はわずか16.5km/h、線路の状態が極めて悪く、バラストはほとんど無く、腐った枕木が土に埋もれ、レールを押さえるはずの犬釘(本当に犬の頭の形をしています)は浮き上がり、よく脱線しないで走れるものだと感心しました。最高速度は25km/hに押さえられ、開通したころよりも所要時間が延びていたとか。

初めて北丹鉄道を訪れたのは、1967年の秋のことです。当時の時刻表によると、福知山5時50分の河守行き始発から、21時25分着の最終まで、1日6往復の列車が運転されています。おそらく、1971年の運行休止(廃止は1974年)時まで、変わらなかったと思います。

福知山駅の、今の北近畿タンゴ鉄道宮福線のホームの場所に、北丹鉄道の乗り場がありました。山陰本線に沿って福知山を西向きに発車すると、すぐに市街地の縁を回り込むように右に急カーブして北に向きを変え、1km余りで北丹鉄道の本社や車庫のある福知山西に到着します。

福知山西を出た列車は、由良川の堤防上の雑草に埋もれた線路を走り、やがて堤防を越えて河川敷に降りていきます。河川の改修で、線路の後ろに堤防ができてしまったとかで、川が増水すると線路は水没し、北丹鉄道は運休になりました。

由良川の支流に架かる鉄橋は老朽化し、列車は徐行してゆっくりと渡りますが、枕木はボロボロでスリル満点。上天津から先は、現在の北近畿タンゴ鉄道の東側をほぼ並行して河守に向かっていました。

北丹鉄道の車両をご紹介します。主力となっていたのは、国鉄払い下げの2両の気動車、キハ101とキハ102です。番号の10と1、10と2の間が少し空いているので、型式はキハ10型だったのかもしれません。1967年に訪れたときは、キハ101のみが使われ、キハ102はまだ入線したばかりで整備中、はるばる北海道から来たのでしょう、車内には北海道の国鉄線の路線図がそのまま残っていました。

いずれも、もとはキハ04型(その前の型式はキハ41000型)で、戦前生まれの変速時にバスと同じように運転手がクラッチとギヤを操作する機械式の気動車です。マルーンとクリーム色の塗り分けですが、キハ101は雨樋がマルーン、キハ102は幕板までマルーンで、遠くからでも見分けがつきました。

マルーン一色に塗られたディーゼル機関車が2両ありました。森製作所製のDC1は、開業時に用意した蒸気機関車の足回りを流用して、その上にディーゼルエンジンを乗せた車体を組み立てたもので、近くの加悦鉄道をはじめ、全国各地の小規模な私鉄にみられた、森ブタの愛称を持つ機関車ですが、足回りが老朽化してすでに休車状態でした。

日本輸送機製のDB2は、貨物輸送が盛んなころには各地の国鉄駅の側線にいた貨車移動機と同類の小さな機関車で、福知山側が4枚窓、河守側が3枚窓で、前後でスタイルが異なっていました。DB2は機関車の主力として、元気に働いていました。

気動車や機関車に牽引される客車が2両ありました。塗色は気動車と同じマルーンとクリームの塗り分けです。ハニ11はもと南海の木造電車の電装を解除して客車にしたものです。タマゴ型と呼ばれる丸くなった正面に5枚窓の、大正時代の関西の高速電車の典型的なスタイルで、平日の河守発7時と福知山発17時25分の通勤、通学列車に気動車に増結して走っていました。

その名の通り、福知山側の4分の1程は荷物室になっていましたが、その中にも乗客を乗せていました。屋根の老朽化が著しく、雨漏り対策でしょうか、キャンバスで覆われた痛々しい姿をしていました。平日の昼間は福知山駅の側線に留置されていたので、国鉄山陰本線の列車の車窓からもよく見かけました。

2軸の小さな木造客車ハ12は、廃線になった一畑電鉄広瀬線の生き残りです。前身の広瀬鉄道の開業時から、同じスタイルの2軸の電車に牽かれて走っていたようです。1967年当時は、乗客の少ない昼間の2往復にDB2に牽かれて運用についていました。レールの状態もありますが、その乗り心地は凄まじいもので、走り始めると緩んだ木造車体はミシミシと音をたて、床と側壁、天井の断面が、長方形から平行四辺形に変形するのがわかるほどでした。

1968年に再び訪れたときには、キハ102が運用につき、気動車の予備ができたので終日気動車が運転され、DB2やハ12は終日車庫で休んでいました。

国鉄から北丹鉄道に乗り入れる貨車は、客車と一緒にDB2に牽かれたり、気動車の後ろに連結されて混合列車となって運転されました。自社でも貨車を1両、ワ1という名前の木造の有蓋車を所有していました。いつも河守駅に留置されていましたが、黒い塗色の下から白い近畿日本鉄道のマークが透けて見えていました。

北丹鉄道では、鉄道と並行して路線バスを走らせており、福知山駅前から鉄道の終点河守駅をこえて先の集落を結んでいました。観光バスも、車両は所有していましたが、社員にバスガイドがいないため、京都交通から借りて運行していました。

下川駅前のバス停は、鉄道の踏切の標識にバスの時刻表を取り付けたもので、10点の時刻が読み取れることから、1日に5往復が運行されていたものと思われます。写真からみると、バスの走る道は舗装のない砂利道です。だから鉄道が生き残っていられたのでしょうね。

当時すでに、日本鉄道建設公団では、宮津と河守を結ぶ国鉄宮守線の建設工事に着手していました。北丹鉄道と繋げば、福知山−宮津間の直通運転が可能となります。国鉄湖西線の建設により江若鉄道が買収されたように、北丹鉄道も国鉄になることを夢見て運行を続けてきましたが、施設の老朽化と乗客減から、1971年に運行を休止します。

廃止になるのはその3年後ですが、この間に再び北丹鉄道の列車が走ることはありませんでした。国鉄宮守線は、北丹鉄道の部分も含め宮福線として建設が続けられますが、国鉄再建措置法により工事は中断、第三セクターの宮福鉄道としてめでたく開通するのは、運行休止から17年後のことです。

現在では、北丹鉄道福知山西駅や車庫の跡地の大部分は住宅地等に転用されたものの、一部は公園となって北丹鉄道本社跡の石碑とともに、福知山市が復元した北丹鉄道2号蒸気機関車のレプリカが置かれています。ここから1km余り東の新町商店街の一角にある、福知山鉄道館ポッポランドには北丹鉄道の車両のナンバープレートやサボなどの資料が展示され、犬の頭の形をした犬釘もあります。また、福知山西駅から移設された改札口の木製の柵や時刻表などが、当時のままの姿で出迎えてくれます。

このように、北丹鉄道は休止から35年を経た現在でも、生まれ変わった宮福線とともに、地元の人々の心の中に走り続ける幸せな鉄道です。

2006/8 記

 

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