広島電鉄 |
軽快電車3500型運転開始記念乗車券
日本で一番元気な路面電車、それは広島電鉄でしょう。 広島駅から八丁堀・紙屋町の繁華街を通り、西広島から宮島線へ直通する3車体連接車や、5車体連接の低床車が駆け抜けていく様子は、ヨーロッパのLRTに通じるものがあります。そんな中に京阪神の市電が、当時の装いのままで姿を見せるのも、広島を訪れる楽しみの一つです。広島電鉄の電車を初めてみたのは、1965年のことです。国鉄山陽本線の急行“しろやま”が、平行する宮島線の小さな木造のボギー車を追い抜いていくのを車窓から眺めていました。初めて広島電鉄に乗ったのは、1968年の冬です。市内線には、路線の廃止が進む大阪市電の大型車の入線が始まっていたとはいえ、主力はまだまだ広島電鉄生え抜きの車両で、広島駅前には2軸の単車150型もいました。
己斐まで行って出会った宮島線は、京阪100型を鋼体化した広電オリジナル車体の1050型と、阪急宝塚線の小型車500型の扉位置を改造した1070型でした。この1070型の入線で、3年前に山陽本線の車窓から見かけた木造車は廃車になったようです。
次に訪れたのは、1971年に山陽本線の急行電車で九州へ向かう途中、門司港から長崎行きの夜行普通列車に乗り継ぐまでの時間調整と休憩をかねて、広島駅で途中下車をしています。駅前では、全廃になった大阪市電から来た900型が、塗り替える経費を節約してか、大阪当時の塗色のままで、ワンマンカーの青緑の帯もそのまま残して稼働していました。
3回目は、1974年に岩国方面に出張した帰りに国鉄を宮島口で途中下車し、安芸の宮島に渡った後、広電宮島線の2500型直通車で広島駅に出て、山陽本線の特急で岡山へ、新幹線に乗り継いで帰京しています。
1960年代後半から70年代に全国各地の路面電車が次々と廃止になっていった頃、 広島電鉄は京阪神や九州から次々と中古車を譲り受けて車両の体質改善を進め、街はさながら動く路面電車博物館でした。
そんな中古車も供給先がなくなりかけていた1980年に、それまで20年近く新造車がなかった広島電鉄に 、軽快電車が入線します。公共交通機関の再生を目指して、日本鉄道技術協会が開発した次世代路面電車です。
運行を開始した12月、東京からブルートレインで広島駅に降り立つと、朝のラッシュ時は懐かしい京阪神の市電のオンパレードです。案内所で、軽快電車の記念切符やタイピンを買い求め、当日の運行ダイヤを教えてもらいます。
電車の正面の窓下には、目障りな警戒色の黄色い菱形がついています。この頃、広島電鉄では何回か追突事故を起こし、その対策として市内線の車両に導入したそうです。ピンクの宮島線直通車色と、一部の広告塗装、それにワンマンの蛍光赤帯のある京都市電は目立つためか、菱形塗装から除外されていました。
宮島線直通車には、西鉄から来た連接車が加わり、広電初の3車体連接車に組み替えた3000型と、ピンクの直通色に塗り替えただけの1300型がありました。まだ冷房はついていません。
市内線で己斐へ行き、西広島から宮島線乗り換えました。宮島線の高床車の多くは、郊外路線ですが、路面電車のような後部ドアを車体中央寄りに設けた非対称のドア配置です。2両固定編成化した1070型は、後部車両の左側面のドアは中央に1ヶ所のみという珍しい配置になっていました。
案内所で教えてもらった軽快電車の運用をみて、廿日市で写真を撮ってから山陽線に乗って次の目的地に向かうつもりで、線路脇でカメラを構えていたのに、なかなか来ません。あきらめかけていたところ、20分近く遅れて、軽快電車運行開始の飾り付けをした3500型がやってきました。
何とかカメラにおさめて、走って国鉄廿日市駅へ。後日できあがってきた写真をよく見たら、軽快電車が前のパンタグラフを壊したようです。遅れてきた理由はこれでしょう。
広電で心残りが一つ。1968年に初めて広島を訪れたとき、原爆ドーム前から広島駅に戻るとき、宮島線直通車に乗りたいと何本か見送った後にやってきたのが、大阪市電1600型を切り次いで連接化した2500型でがっかり。今も残る大阪市での大型車の750型は改造されていますが、車内灯は大阪時代のままの反射板付きの裸電球です。
当時は、まだ大阪市電の路線も残っていて、何で広島まで来てこんな電車に…と思い、写真に残さなかったことが悔やまれます。
2010/6 記