福知山線 |
福知山線の夜行急行“おき”の車内で買い求めた2等の急行券
福知山線は、東海道本線の尼崎と山陰本線の福知山を結ぶ路線です。今では、JR宝塚線ともよばれ、新三田から南は大阪への通勤圏として、JR神戸線・京都線経由で大阪・京都方面へ、JR東西線に乗り入れて京橋から学研都市線方面への直通運転が行われていますが、かつての福知山線は蒸気機関車の牽引する列車が大阪駅に乗り入れ、その後も通勤時間帯を中心に赤いDD54型ディーゼル機関車やその後を受け継いだDD51型ディーゼル機関車が旧型客車を引き連れてやってくる、都会の中の近代化に取り残された路線でした。初めて乗った福知山線の列車は1968年2月の急行“おき”です。スハ43系の客車を中心に、10系の寝台車と郵便荷物車で編成を組んだ、大阪発福知山線・山陰本線経由の夜行の急行列車大社行きです。 眠れぬまま寒い中、最後尾のデッキに出て、雪明かりの中、後方に流れゆく二筋のレールを見つめていました。
このときの大阪から米子までの2等の急行券を上に示します。400kmまでの料金は300円でした。“おき”の牽引機の記憶はありませんが、優等列車ですから蒸気機関車ではなく、DF50型かDD54型ディーゼル機関車だったのでしょう。
翌年のヨン・サン・トーのダイヤ改正で、京都発東海道・山陽・伯備・山陰本線経由の大社行、昼行のディーゼル急行“だいせん”と愛称名が入れ替わり、数年後には 伯備線ルートはキハ181系に置き換えられて特急“おき”になります。一方、大阪発の山陰夜行急行が“だいせん”を名乗るようになって35年余り、DC化されたとはいえ夜行の急行として奇跡的に現存しています。
下り急行“だいせん”のもう一つの重要な役割として、新聞輸送がありました。夜に各新聞社の大阪本社で刷り上がった翌日の朝刊が荷物車に積み込まれます。夜半の0時過ぎに福知山に着くと、新聞は京都からやってくる夜行の普通列車下関行き(後に出雲市行きとなり寝台券の関係で“山陰”の愛称が付きました)に引き継がれて、 未明の各駅に降ろしていくのです。長距離の夜行の鈍行が80年代になってもまだ残っていたのには、こんな使命があったことも理由の一つです。
福知山線のクイーンは、キハ82系の京都−博多間の特急“まつかぜ”と、これを補完する新大阪−浜田間の特急“やくも”です。 この頃はまつかぜでもまだ10両編成、やくもはわずか7両ですが、いずれも食堂車や1等車を組み込んだ特急にふさわしい編成です。京都−博多間を山陰経由で結ぶといっても、大阪を無視することはできず、東海道本線から福知山線経由で福知山まで、大阪駅と宝塚駅の乗客のために1.5倍以上の距離を遠回りをして います。
福知山は、福知山線と山陰本線に加えて、綾部から舞鶴線が分かれており、ジャンクションの一つとして機関区が置かれていました。亜幹線用の主力ディーゼル機関車としてDD54が集中的に投入され、旅客用のC57や貨物用のD51を置き換えていき、定期列車から蒸気機関車が引退したのは福知山線が1968年の春、山陰本線京都口が3年後の71年の春のことです。 福知山線を追われたC5787とは、7年後に北海道宗谷本線で再会することになります。
大阪近郊路線として尼崎から宝塚まで電化され、福知山線に黄色い103系が走り始めたのが1981年、86年には宝塚から新三田まで複線化され、山陰本線京都口の保津峡によく似た、武庫川沿いの景勝区間がトンネルになるとともに、山陰本線城崎までの電化が完成して、485系の特急“北近畿”や黄色い113系の運行が始まります。
2度目に福知山線の列車に乗った記憶があるのが80年代はじめでしょうか、出張で立ち寄った大阪駅でDD51が牽引する夕方の福知山線下り通勤列車を見かけ、旧型客車だったので思わず宝塚まで乗ってしまったことがあります。
3度目は、88年に福知山と宮津を結ぶ第三セクターの宮福鉄道が開通した時です。急行用のキハ65を展望室付きに改造して特急に格上げした“エーデル丹後”による、大阪から宮津までの直通運転が始まります。当時非電化だった七尾線直通の“ゆーとぴあ和倉”と同様に、電化区間は485系電車に牽引され、福知山−宮津間だけ自力で走るユニークな列車でした。
2004/03記