京福電鉄叡山・鞍馬線

京福電鉄叡山・鞍馬線の車両

京福電鉄叡山・鞍馬線の想い出

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叡山線のデオ301と
鞍馬線のデオ201号
出町柳 '85.8

当時の叡電唯一の
高性能車デオ301型
八瀬遊園付近 '85.8

当時の最新型
デオ601型
八瀬遊園付近 '85.8

叡山線の
デオ606号
八瀬遊園付近 '85.8

       

鞍馬線の
デナ24号
岩倉付近 '70.10

鞍馬線の
デオ201型
岩倉付近 '70.10

鞍馬線の
デオ201号
岩倉付近 '70.10

デナ1型の
廃車体
場所不明 '70.10

       

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淀屋橋から京阪特急に乗り、終点の出町柳で下車して地上に出ると、八瀬・鞍馬に向かう叡山電鉄の出町柳駅があります。今では京阪電鉄系列の叡電ですが、かつては 同じ京都市内の四条大宮から嵐山に向かう嵐電とともに、京福電鉄が運行していました。

ここに写真があるのは、いずれも京福電鉄時代の1970年と1985年です。70年頃は、京都市電に乗って今出川通りで鴨川を渡った加茂大橋の電停で降り、川端通りを北へ少し歩くと、 出町柳駅があり“ヱイ山鞍馬行き”の看板が出ていました。

出町柳から八瀬遊園(現在の八瀬比叡山口)までの叡山線は、1925年に京福電鉄の前身である電力会社、京都電燈により開業した路線、宝ヶ池(当時は山端)鞍馬間の鞍馬線は1928年に傍系の鞍馬電鉄により市原まで開業し、翌年鞍馬まで全通した路線です。

京都電燈が叡山線の開業に当たって用意した車両は、6両のデナ1型です。1920年代の前半の近鉄や阪急、南海等の前身となる、当時の関西の私鉄に多く見られた、卵形と呼ばれる正面が丸い木造車ですが、 他社はダブルルーフに正面5枚窓でした。

電車の型式デナ、デオのデは電動車、ナとオは国鉄客車の自重による区分記号、コ、ホ、ナ、オ、ス、マ、カに対応しているのかと思ったのですが、デオ300型の重量はオではなくナに相当します。実は、デナは中型のナ、デオは大型のオで車体の大きさだそうです。

京都電燈デナ1型は鋼製車への過渡期のデザインでしょうか、車体が短く前後2扉ですが、シングルルーフに正面3枚窓となり近代的な外観です。日本では珍しいドイツMAN社製のオール板バネ台車は、小さな車体に似合わない長いホイールベースのため、床下のスペースが不足し、抵抗器が屋根上に追いやられています。

デナ1型は小型のため、末期の頃は片側の運転台を撤去して貫通幌を設け、2両固定編成で叡山線で使用されていました。1964年に阪神830型10両を譲受したデナ500型と交代に廃車になりましたが、一部の車 体は台車を外したダルマさんとして、倉庫になって残っていました。

修学院車庫に1両のダルマ がいた記憶があるのですが、ここにある写真は、それとは別に岩倉付近に置かれていたものを偶然見つけて撮影したのではないかと思います。現役時代はドアと窓枠がニス色だったように記憶していますが、このダルマの写真ではドアも車体と同じ塗り分けになっています。

デナ1型に続いて、同じスタイルで3扉にした木造のデナ11型が4両造られましたが、第二次大戦中に京都電燈福井支社の路線(今のえちぜん鉄道)に移りました。1950年代後半に日車標準車体に更新され、ホデハ241型として 京福電鉄福井を代表するロマンスカーに生まれ変わっています。

1928年の鞍馬電鉄開業時に、鋼製のデナ21型121号〜124号が造られ、翌年に125号と126号が増備されます。増備時に、同じ車体で京都電燈叡山線用に21号〜24号がデビューしました。鞍馬電鉄の車両は、市原から先の山岳区間に1000分の50の急勾配があるため、電気ブレーキを装備していま すが、平坦な京都電燈叡山線のデナ21型の登場時にはこの設備はありません。

1942年に戦時統制により、配電事業を京都は現在の関西電力に、福井は現在の北陸電力に譲渡して解散した京都電燈から、鉄道部門が京福電鉄として独立します。ちなみに、京都駅前の旧京都電燈本社は、今でも関西電力京都支店として健在です。

1951年に戦後の新車として4両が登場したデオ200型は、張り上げ屋根に埋め込みヘッドライト、モーターの出力もアップし、鞍馬線用に電気ブレーキも装備した、当時としてはスマートな新車です。京福電鉄はその前身の京都電燈の時代から、出町柳から三条まで路線を延長して京阪電鉄と接続するための、鴨東線の免許を持っており、200型はそれに対応した車両といわれています。ちなみに、デオのオは大型だとか。

デナ21型の車内の照明は、1950年代にグローブの白熱灯からチューブランプとよばれる管球タイプの白熱灯に交換されています。この頃の路面電車によく使われた、6個直列にして600Vで直接点灯する方式ですが、天井に2列に6×4組=24灯並んでいたので、明るい車内でした。吊革を吊した棒を網棚の先で支える 特異な構造も含め、デナ21型の車内は当時の嵐電のモボ101型〜121型とそっくりです。

1964年に121号と123号が鞍馬線の単線区間で正面衝突事故を起こして出火し、2両とも全焼して廃車になっています。事故を起こした編成は単行と2連だったので、1両は類焼を免れて生き延び ているはずです。

鞍馬まで入れる車両を補うため、21号〜24号の制御器を交換して電気ブレーキの装備し、モータの出力アップも行い、122、124〜126号と共通運用が組めるように改造されます。このときに使わなくなった制御器が、嵐電モボ301型の新造時に流用されたとの話もあります。

鴨東線を意識して1959年に2両増備したのがデオ300型、叡電初のWNドライブ、電気ブレーキ付きの高性能車です。正面に貫通扉を設け、埋め込み型の幌を装備したスマートな車体ですが、集電装置は相変わらずのトロリーポールです。デビュー当時はポールの操作のために開閉できる正面窓は貫通扉だけ。

2両編成では、通常は後ろの車両のポールで集電しますが、鞍馬線の二軒茶屋以遠の急勾配区間を登るとき、集電容量の関係で、前後の両方の車両のトロリーポールを使います。デオ300型は、連結して幌をつなぐと、前の車両のポールが操作できなくなります。

1970年頃にパンタグラフ化された京阪京津線から、トロリーバスのように先端がスライダーになったポールを譲受して交換してから、鞍馬まで1本のポールだけで運転できるようになったのですが、車体の長いデオ300型は、2両編成にすると出町柳駅の2番線又は3番線に入線したとき車体がはみ出すため、鞍馬線の運用ができず、新車の入線時に記念写真の撮影のために連結運転を行っただけで、貫通路を持ちながら単行運転に使用されてきました。

1978年に元田中で交差する京都市電の全廃を待って架線の改良を行い、日本で最後のポール集電の叡電もパンタグラフに交換されます。

1979年から、車体の老朽化が目立つ阪神からの譲渡車、デナ500型の機器を流用して車体を新造したデオ600型が6両登場します。デオ300型の失敗を教訓に、連結運転が可能なところまで車体長を短くし、電気ブレーキも装備して、叡電の所属車は全て鞍馬までの運用が可能になります。

京都市電の廃止により出町柳での接続はバスのみとなり、利用者の減少による赤字幅の増大を受けて、京福電鉄は別会社の叡山電鉄を設立して、1986年に叡山・鞍馬線を切り離します。1987年から、デナ21型、デオ200型、デオ300型の更新として、一部は機器流用でワンマン運行が可能な車両が登場します。

1989年には、京阪電鉄の手で鴨東線が開通し、出町柳で接続することとなります。乗客数の回復とともに新造車も投入され、今では京福電鉄時代からの緑とベージュに塗り分けた車両は、600型2両を予備車に残すのみとなりました。

2007/08記

 

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